薄闇に包まれた室内は静寂に包まれていた。
 そのなかで目覚めた彼女はぼんやりと視線を動かし、窓に引かれたカーテンで止まった。カーテンの下方が白っぽく見えるのは朝を告げる光のせい。
『もう…朝か』
 全身が気怠く、頭の中には霞がかかっているようだった。
 ふとかすかな気配に気づいて顔を向けるとベッドのすぐそば、椅子にもたれて目を閉じている男の姿がぼんやりと見て取れた。
『ビクトール…?』
 うつむき、かすかな寝息をこぼす姿はどこか疲れているように見えた。
 どうしてこんなところでこんな風に寝ているのだろうと思い、彼女はそれまでの出来事を思い出す。
 何度かまばたきして、今が夢の中ではなく、自分は目覚めたのだと改めて確認したとたん、彼女は反射的に目を閉じていた。
『しまった』
 どうも目覚めたくないと願った後、本当に眠ってしまったらしい。…まあ、それはいいとして。
 困ったのは、眠ったからといって自分の身に降りかかった問題が解決されてなどいないコトだった。
 そのまま先送りされただけの問題と今から対決しなければならない。
『それにしても…』
 自分が倒れてからどれだけ経ったのだろう?
『せいぜい一晩…といったところだろうか』
 それでもやはりビクトールにはずいぶん悪いコトをしてしまった。
 彼女の理性と良心が罪の意識にちくりと痛んだ。
『今すぐにでも自分がなんともなかったことを教えてやらないと』
 しかし、そう思ったそばから正反対の意見が飛び出していた。
『いや、疲れているみたいだし、もう少し後にしたほうがいいだろう』
 あからさまに言い訳じみた言葉。
 我ながら、らしくない卑怯な態度だと彼女は唇を歪めた。
 しかも、気配を殺してベッドを抜け出す自分はさらに非人道的で無情、と言えるかもしれない。
『悪あがきだな…』
 すまない、ビクトール。
 どう時間を稼ごうと何かが変わるわけでもなければ、上手な言い逃れができるわけでもないのに。
 そう思いつつ自分の体を見下ろし、彼女は自分が寝間着を身につけていることに気づいて少し驚いた。
『ビクトールが着替えさせてくれたのだろうか?…珍しいこともあるものだ』 
 しかし、このままでは部屋の外に出ることができない。
 ベッドの足下には前に着ていたと思われる軍服が適当に並べ置かれていた。それはビクトールからほんの数十センチの距離で、彼を起こす危険を伴っていた。
 とはいえ、新しい服を出すために戸棚を開ければ、必ず蝶番のきしむ音が響いてしまうし。
『仕方ない…』
 彼女は逡巡した末、ほんの少し手を伸ばせば服に手が届く方を選んだ。
 眠る相手の様子を注意深くうかがいながら、そろそろと手を伸ばす。服を掴めば、再び音を立てないようにしてあとは引き寄せるだけだ。
 小さな衣擦れの音に最大限の注意を払い、彼女は息することさえこらえた。服を抱え込み、じりっと後ずさりながらゆっくりと体の向きを変える。
 が、次の瞬間、まるでその時を待っていたかのように大きな影が勢いよく動いた!
「っ!」
『ビ、ビクトールっ!?』
 とっさに身を引くより早く、彼女の肩は掴まれ、ベッドの上に押さえつけられていた。
 驚きに見開く目に、まっすぐ彼女の姿を捉えている瞳が映り込む。
「よお、やっとこさ目ぇ覚めたみたいだな。バレリア」
 ムッとしたような眼差しと声。
 こっそり逃げだそうとしたコトに彼は気づいただろうか…?
『最悪だ…』
 罪悪感やうしろめたさといった感情がどっと押し寄せ、彼女はこめかみに冷や汗がにじむような気がした。
「で、おめえは何してんだ?」
「何って…」
 自分の声が奇妙に引きつっているのを聞き取り、バレリアはそれ以上の言葉を失う。
 シンとした沈黙はひどく居心地が悪くて。
 自分をじっと見据えてくる視線は熱くて、まるで肌に突き刺さる針のようだった。
 そして、与えられる言葉にはまるで死刑宣告のごとき衝撃が込められているにちがいないのだ。
 次に何を言われるのか?
 その時、どんな言葉を返したらいいのか?
 彼女の頭のなかではその二つの問いがぐるぐる駆けめぐっていた。しかも答えが出ないから、心臓の心拍数はどんどん跳ね上がり、鼓動がどくどくと鳴り響く。
 と、ふいにビクトールが体を引き、彼女の視界に薄い掛け布団が広がった。
「ビ…クトール?」
「もうちっと安静にしてろ」
 彼はぶっきらぼうに言うと掛布をバレリアの肩口まで引き上げた。その手つきがひどくやさしい。怒っているどころか、そんな自分を気遣う対応に彼女はますますいたたまれない気持ちになった。
「ビ、ビクトール、その…怒ってないのか?」
 視線をわずかにそらし、ぼそぼそと小さな声で問いかける。
「怒るってなんにだ?」
「なにって……その、いろいろと」
 思わず言葉を濁し、彼女は自分がした事を胸の内で考えてみた。
 今もこっそり部屋を抜け出そうとしたコトとか。
 目覚めたくなくてわざと惰眠を貪ったコトとか。
 いろいろ心配かけたコト。
 少し考えただけでもかなりの悪事だと思う。そんな自覚があるだけにバレリアの態度はいつになく弱々しかった。
 それを疲れているからと思ったのか、ビクトールは声を荒げるでもなく軽く肩をすくめただけ。
「そりゃあ、無茶しやがるし腹も立ったがな。今回は特別だ」
 許してやる。
「特別…?」
 怪訝に聞き返したバレリアに彼はニヤリと笑った。それはひどくうれしげで、しかも彼女をからかってやろうという魂胆がみえみえの笑み。
 それに嫌な予感を覚え、バレリアはとっさに布団をはねのけようとしたが、ビクトールの腕が掛布ごと彼女の体をベッドに縫い止めている。
「だってな、すげえ珍しいモン見れたしよ」
 珍しいモノ…それが何を指すのかわかる気がして彼女は呼吸困難に陥りかけた。
「ビク…ト……ちょっと待っ」
「オレのコトで嫉妬するおめえなんて初めて見た」
「−−−−っ」
 とっさに反論しようとするが、言葉が出ない。
 みるみるうちに顔に血が上るのをバレリアは感じて、ふいと横を向いた。そんなこと意味がないとわかっていても相手の目を正面から正視できなかったのだ。
「呆れた、だろう?」
 かすれた声で息も絶え絶えにそう告げとビクトールは不思議そうに目を細めた。
「呆れる?」
「…そうだ。キスひとつのことだというのに心が狭い」
 自分がわざとからかわれているのだと、彼女はよくわかっていた。
 わかっていながら、それを我慢して見過ごすことができなくて。
 本気で反抗してしまうなんて本当に子供のようだ。
「独占欲と嫉妬深さに自分でも嫌になる」
 きっとビクトールも呆れ果てているにちがいない。
 しかし、そう思い込んでいた彼女に届いたのは耳をくすぐるような低い笑い声だった。
「ビクトール…?」
「いや。なんだ…オレは正直言ってすげえうれしかったけどな」
「…?」
「おめえはオレが何してても嫉妬したトコ、見せたりしねえじゃねえか」
 嫉妬なんて感情とは無縁かと思っていたぜ。
 その言葉にバレリアは苦笑した。
 嫉妬は、する。
 ただそれを誰にも気づかれないように振る舞っているだけのことだ。
 それはビクトールを必要以上に束縛したくなかったから。
 そして、心の狭いヤツだと嫌われたくないからだ。
「なあ」
 ビクトールは亜麻色の髪を指で梳きながら、彼女の耳元に唇を近づける。
「オレがほかのヤツとキスするの、嫌だと思ってくれたわけだ」
「………」
 今さらの確認にバレリアは吐息をつきつつ、観念したように目を閉じた。
 頬や首の辺りが燃えるように熱かった。
「…ああ。そうだ」
 唇も。
 眼差しも。
 笑顔も、すべて。
 すべてが自分だけのものであったならとさえ願う時があった。
 しかし、そんな傲慢な想いは恥知らずの極みではないだろうか?
 それでも。
 そう思っていても。
「すごく腹が立った」
 正直に告げる彼女の頬にあたたかなものが触れた。それが唇だと気づくのにそう時間はかからない。
 そして、唇は包帯が巻かれたバレリアの手首へとそっと触れる。
「そいつはすげえうれしいけどよ」
 囁きが肌に伝わる。
「あんまし無茶してくれんなよ」
 オレが無茶できなくなるじゃねえか。
「…勝手なことを」
 苦笑しながら、ようやく目を開いた彼女の瞳にやさしい眼差しが映り込んだ。
 ビクトールの無茶を防げるなら自分がそれを先にやってしまうのも悪くないかもしれない。
 そんな不遜な考えが頭を横切ったが、瞳の真摯さに彼女は素直に頷くことにする。
「わかった」
 それで今回の罪を少しばかり精算するとしよう。
「絶対、もう無茶しねえな?」
「そうなるよう努力する」
 告げる言葉にビクトールは少し考えるように沈黙した。
「本当に大丈夫だな?」
 半信半疑の表情を消しきれず、そう念を押す相手に彼女は「しつこいぞ」と苦笑した。
 これ以上の確認は無意味にちがいなかった。最大限の努力はする。しかし、努力と結果が往々にして一致しないというのもまたよく知られた事実なのだから。
 代わりに、これはよい機会だと彼女はビクトールを見据えて口調を変えた。
「それより、おまえの方こそもっと慎重に行動してだな。敵の中に突っ込むのは…」
 いつもの説教が始まり、やぶへびだったかとビクトールは顔を引きつらせる。
「わかった、わかったっ」
 わかったから、今日はやめてくれ。
 流暢な小言を続ける口を慌てて塞ぎにかかるその様子を見ながら、バレリアは微笑んだ。
 自分がこれほどまでに欲張りだと思ったことはない。
『それを教えてくれたのはビクトール、おまえだ』
 その事実に後悔ではなく、語り尽くせぬ幸福感を抱く自分は本当に幸せ者だ。
「なんだ?バレリア」
「いや…」
 ただ幸せだな、と思っただけだ。
 呟きに、ビクトールは一瞬動きを止め、そしてひどく照れくさそうに笑った。
 そして、聞こえるか聞こえないかの小さな囁きが応える。
「オレもそう思うぜ…」
 と。


 END