「テンガアール!」
 名を呼ぶ声に、廊下を歩いていた彼女は立ち止まった。
「どうしたのさ。ヒックス」
 息をきらせて走ってきた少年を怪訝に思いながら、問う。
「どうしたって…だって、テンガアールが窓から落ちたって聞いて」
「へ?」
 目をぱちくりさせる彼女の様子にヒックスは戸惑いを隠せぬまま、
「えっと、ケガしてないよね。も、もしかして、ちがった?」
 しどろもどろに言う。
 なんとなく状況がわかってテンガアールは苦笑した。つい先ほどのコトだというのにヒックスの耳に入るくらいには話は広まっているらしい。でも…。
「ちがうってば。落ちたのはアイリーンさん」
「ええっ!?アイリーンさん、ケガしたの?」
「それは大丈夫。ちょうどレパントさんが下にいて受け止めてくれたから」
 ケガなんてしてないよ。
 その言葉にようやく人心地ついたようにヒックスはほっと息をついた。
「よかった」
 しかし、テンガアールはというと複雑な気持ちだった。
「あんまりよくなかったけどね」
 ぼくの目の前で落ちてさ。
 心臓が止まるかと思ったよ。
 そう愚痴る彼女にヒックスは真面目な顔つきで応える。
「でも、なにもなくて良かったじゃない」
 それは確かにそうなんだけど。
 でも、アレが『わざと』だったから素直に喜べないんだよね。
 テンガアールは口には出さず、胸の内で呟く。
 ただ、それだけ驚くに値する収穫はあったけれど。
『本当にごめんなさいね。あなた』
『もう慣れた』
 しおらしく謝ってみせるアイリーンにレパントが苦笑しながら返した言葉。
『だが、みなに心配をかけたところは反省せねばな』
 そして、彼は言ったのだ。 『迷惑をかけたな。テンガアール』と。
『そんなこと…』
 ない、とは言いきれなくて。
 言葉を濁したテンガアールに彼は小声で囁く。
『なくはなかろう?』
 本当に困ったものだ。
 その呟きに、レパントはアイリーンの事故が彼女自身の”過失”ではなく”故意”だとちゃんと見抜いていたのだとテンガアールは気づいた。
 そして、そんな二人の関係がとても素敵なモノに感じられたのだった。
 レパントはおしとやかで上品な姿のアイリーンだけでなく、その意外な無鉄砲さまですべてを愛しているのだわかって。
 それがすごくうらやましく思えたのだ。
「あれ?テンガアール。そんな服、持ってたっけ?」
 今、初めて気づいたとばかりにかけられたヒックスの言葉に、テンガアールもそういえば黄色のワンピース着てたんだっけと思い出す。
「ちがうよ。新しく作ってもらったヤツだよ」
 変、かな?
 少しどきどきする気持ちを誤魔化すようにぶっきらぼうに問いかけてみる。
 するとヒックスは顔を赤くして、
「変じゃないよ」
 か、可愛いと思うけど。
 照れくさそうに、それでもきちんと応えてくれた素直な言葉にテンガアールは笑みをこぼした。
「ねえ、ヒックス」
「なに?」
「やっぱりこういう服着てる時は”ぼく”じゃなくて、”わたし”とかの方がいいのかなあ」
 自分の中で答えはもう出ていたけれど。
 ヒックスならどんな風に思うのか知りたくて。
 そんなコトを聞いたテンガアールにヒックスは「え?」と一瞬、怪訝そうな顔をしてそして、笑った。
「なんでさ。テンガアールが”わたし”なんて変だよ」
 それはいつものテンガアールなら「失礼じゃないか」と怒るようなセリフだったかもしれない。
 でも、彼女は怒らなかった。
 代わりに「そうだよね」と笑って返す。
 レパントさんがアイリーンさんに対してそうであるように。
 ヒックスには本当の自分を見ていてもらいたかった。
 本当の自分をちゃんと知っていてもらいたかった。
 無茶したり、わがまま言ったりするけれど。
 そんな自分を理解してほしい。
 そんな”ぼく”を好きになってほしい。
「ぼくはやっぱり”ぼく”なんだもんね」
 そして、テンガアールは『でもね』と付け加える。
『君にはもっと強くなってほしいよ、ヒックス』
 ぼくを護れるくらい。
 ぼくがきみを心配しなくてもいいくらい。
 強くなってみせてよ、ヒックス。
 戦いが嫌いで。
 やさしい”きみ”がぼくは好きだけど。
 ずっと好きでいるけれど。
 ぼくときみがいつまでも一緒にいられるように。
「早く強くなってよね」
 小さな囁きにヒックスは「ん?」と振り返る。
 テンガアールはそんな彼の手をつかんで、にっこりと笑いかけた。
「だからー、これからすぐに練習だよっ」
「だから…?練習って?」
「もちろん剣の練習に決まってるじゃないか」
 フリックさんに稽古つけてもらおうよ。
「ええ!?なんでそうなるのさ。テンガアール」
「だって、ぼくがそう決めたから」
「決めたって…」
 堂々と胸を張ってそう言うテンガアールにヒックスは言葉を失う。
「早く行こうよ」
 そうしてテンガアールに手を引っ張られてついてゆくヒックスは困り顔ではいたけれど。
 その瞳がやさしい想いを宿したままに彼女を見つめていたコトまでは、歩いてゆく前ばかり見ていたテンガアールも気づかなかった。


 END