『高嶺に咲く気高き花』
 その言葉が何を−−−いや、誰を指すのかビクトールにはわかっていた。
 色鮮やかな真紅の軍服が。
 そして、艶やかな真紅のドレスが似合う女。
『あなたには不釣り合いなのですよ』
 思い浮かんだ色そのままに、頭の中が赤く染まるような感覚が走る。
 侮辱に対する衝動的な怒り。
 しかし、この時生まれた感情がそれだけではないことを彼は知っていた。だから。
「殴らないのですか?ビクトールさん」
 顔面すれすれで止まったこぶしに構えるでもなく、じっと見つめて問う瞳に彼は皮肉げな笑みを返す。
「てめえを殴っちまったら、てめえが言ったコトを認めることになるだろーが」
 だから、安心しな。フリック。
 そこで二人の間に入るべく立ち上がっていたフリックは再び椅子へと戻った。
「にしてもよ、てめえ、すっげえムカつく野郎だな」
「おや、その程度の評価では物足りないというものですよ」
「はあ?」
 何言ってやがんだ、コイツは。
 片方の眉を上げたビクトールに、ミルイヒは今度こそ誰の目にもわかる意地の悪い笑みを浮かべた。
「あなたがわたしを殴らなかったのは、わたしの言葉が図星だったからでしょう」
 イタイトコロを突かれたから暴力で返すというのは最低の行為ですからね。
 その言葉にビクトールは一瞬、ほんのわずかに息を詰めた。
「あなたは自分が彼女とは不釣り合いかもしれないと思っている」
「そんなことは…」
「ないとは言わせません」
 あなたは逃げたのですから。
「逃げた、だと…?」
 そこで、『バカなことを言うんじゃねえ』と鼻先で笑い飛ばせたのなら良かったのかもしれない。
 しかし、ビクトール自身、相手の言葉が正しいコトがわかっていたからこそとっさの反論が出なかった。
 なにより、冷徹なまでに状況を分析している鋭い目を前にどんな言い分が通用すると?
『クソッ』
 脳裏にひとつのシーンがまざまざと蘇る。
 真紅のドレスを身にまとい、優雅なステップを踏むその姿。
 意識を奪われ、魅入られるほどに。
 戦場とはまた違った彼女の美しさと気高さとがそこにはあった。
『だが…』
 よく知るはずの恋人が、その時まるで知らない人間のように見えたのも確かだった。
 ほかの男に腕をとられて踊る彼女を、いつもの彼ならすぐさま奪い返しに行っただろう。
 しかし、そうせずに黙って踵を返したのは”気後れ”したからだ。
 優雅なダンスなどかけらも知らない自分が出て行ってなんになるだろう?
 それに美しい彼女の横に立つには自分の姿はあまりにもみすぼらしく思えて。
『らしくねえ』
 本当に自分らしくない卑屈さだったと彼は思う。
 そして、今の彼にはそんな考えが間違いであったこともわかっていた。
 どんなに着飾り別人のように見えても、彼にとって唯一の恋人は相変わらずの性格で。
『こんなオレを好きだと言う』
 今さらの確認に、こうまで幸せになれる自分はおめでたい男なのだろうか?
「…気持ち悪いですね」
 ニヤニヤ笑わないでください。
 心底嫌そうな声にビクトールはふっと唇をゆるめる。
 そういえば自分はつい今しがたまで最高に不愉快な気分だったっけか。
「悪ィな」
「これだから、単細胞な人は嫌いです」
 ミルイヒはそこで初めて、眉間にシワを寄せた。
「嫌がらせもまともに通用しないんですから」
 そんなストレートなセリフにはさすがのビクトールも怒りを通り越して呆れてしまう。
「てめえもよくよくヒマ人だよな。ミルイヒ」
「失礼ですね。わたしの人生はいつも多忙ですよ」
 ですが。
 あなたへの嫌がらせもわたしの人生の必須条項ですから。
「…………」
「ほんっとうに腹立たしいかぎりです」
 あなたを落ち込ませるのにわたしがどれだけ苦心したと思ってるんです?
 踊っている時も彼女があなたに気づかないように、会話からステップの配分まであれほど気をつかったというのに!
「負け犬のあなたが、夕食の時間にはケロリとしているんですからね!」
 一人で怒り続けるミルイヒについていけず、ビクトールはぼりぼりと頭を掻く。
 言われてみれば、確かにあそこで目が合うなり、言葉を交わすなりできていたなら彼も”気後れ”などしなかったかもしれない。しかし、そんなコトを逃げた自分の弱さの理由にはできない。
 それによくわからないが、ミルイヒがこんな様子を見せるということはどうやら自分の方に軍配は上がっているようで。
 だから、ビクトールは怒るよりも、『よくやるぜ』と呆れとも感心ともつかない気持ちになっていた。
「そりゃあ悪かったな」
 なんとなくこぼした呟きにミルイヒはふんと横を向く。
「別に悪くはありません。これくらいでいつまでも落ち込んでいるようでは話にもなりませんから」
「あ?」
「ただ腹が立つんですよっ。豚に真珠を与えてしまったようでね」
 その比喩が何を指すかはビクトールにも嫌というほどわかった。
「あのなあ…」
 しかし、彼の言葉を遮って続けられたミルイヒの声はこれまでと一転して楽しげなものだった。
「まあ、諦めてください」
「?」
「わたしはあなたをいじめるコトを人生の生きがいに決めましたから」
「なんっ…」
「逃げるのも戦うのもあなたの自由ですよ」
 挑発的な瞳の奥に見え隠れするのは、からかいを含んだ色。
 その時、ビクトールにもようやくミルイヒの真意が見えた気がした。
 要するにミルイヒの行動は単なる嫌がらせだけではなく、ビクトールが高嶺の花を手にするに相応しい男かどうか試しているのだ。
 何の権利があってそんなことを、と思わなくもないが。
 それはまあ、少なくともミルイヒがある程度ビクトールを認めているということらしい。
 ビクトールはニヤリと不敵な笑みを唇に浮かべる。
「引く気はねえよ」
 対するミルイヒはその言葉にくすりと笑った。
「いつか音を上げる日を楽しみにしていますよ」
 わざとらしいくらいに気取った礼をして背を向けた彼にビクトールは告げる。
「そんな日はジジイになるまで待ってもこねえよ」
 もう二度と気後れなどしない。
 釣り合いがどうであろうと何を言われようと、手放せないモノが確かにあるのだから。
「とばっちりはごめんだからな」
 そんなつれないコトを言う友人に、彼は笑う。
「んなことオレが知るかよ。フリック」
 喉に流し込んだ酒は氷が溶けて水っぽくなっていた。
 が、それもまた一興だとゆっくりグラスを傾ける彼の心は晴れ晴れとしたものだった。


 END