『クソッタレがっ!』
 言葉では語り尽くせないくらい、ひどく腹が立っていた。
 石造りの廊下を足音も荒く突っ切って、たどり着いた先の扉を思いきり蹴り開ける。
 そんなコトをしてもまったく罪悪感を抱かないくらい彼は怒っていた。
「てっめえ!!全部知ってやがったな!」
 閉めた時の衝撃に、今度こそ耐えきれなかった蝶番が弾け飛ぶ。
「夜も更けたというのに騒々しいのは感心しませんね。ビクトールさん」
 胸ポケットに赤いバラを挿し、赤ワインの満たされたグラスを持つといういかにも貴族然とした風情。
 窓際の椅子に腰掛けていた男がやれやれというように肩をすくめて振り返る。そして、驚いたように軽く目を見張った後、口元に手を当てくすりと笑う様子はいつもながらやけに芝居じみて見えた。
「ふざけんなよ。ミルイヒ」
 自然と地を這うように低くなる声にも別段、構える様子はない。
「すごい格好ですねえ」
「てめッ!」
 考えるより先に、ビクトールは相手の胸ぐらを掴み上げていた。
 よれよれになった服と酒まみれになった姿。
 それを見て言うセリフがそれかッ!? 
「怒ったのですか?」
 からかいの色を混ぜた目をしながら、ミルイヒは意外そうに問う。
「怒ってねえように見えるってか?」
「ですが、わたしとしては褒めたつもりなんですがね」
 次の瞬間には、パシッという音と共に手が払いのけられていた。
 反射的に眉をつり上げるビクトールには見向きもせず、まず曲がった襟元を指先で丁寧に直しにかかるミルイヒ。そこまで片手で持っていたグラスの中身を一滴もこぼさなかったのはさすがと言うべきか。
 到底自分とは同じ人間とは思いがたい相手の態度と、まったく噛み合わない会話とにビクトールは怒りを通り越して吐き気すら覚えた。
 こういう人種とは関わり合いになるもんじゃねえ、と今さらながらに再認識する。
 となれば、ぜんっぜん怒り足りなくても、とっとと用事を済ませて退散するのが一番にちがいない。
「なんでオレに押しつけた」
 ミルイヒの意図がどこにあったのかなんて知らない。
 それでも、この男の思惑に乗ったせいで不愉快な気分を味わったのは確かだった。
「できることなら、わたしもあなたを選びたくはなかったんですけどね」
 あからさまに責めているというのに、悪びれることを知らぬかのふてぶてしさでミルイヒは薄く笑う。
「ちょうど良い機会でしたから」
「良い機会、だと?」
 本心を包み隠すような態度にビクトールは苛立つ。
「ほら、度を過ぎる我慢は体によくないと思いませんか」
 その言葉に思い浮かんだのは、深い悲しみを押し殺すようにして泣くヤツの姿。
「なら、てめえがなんとかしてやりゃよかっただろーがッ!かわいい部下なんだろ」
 面倒事を人に押しつけたミルイヒにムカついた。
 そして、なにより一番ムカついたのは泣かせることしかできなかった自分自身。
 ミルイヒは嫌味ったらしい野郎だが、達者な口を使えば気のいい慰めの一つや二つ簡単に用意できたことだろう。ならば、こういう時こそ働くべきなのだ。
「それができるなら問題ないわけですよ。ビクトールさん」
 ミルイヒは苦笑しながら中身の残ったグラスをそばのテーブルへと置き、改めてビクトールを見た。
「困ったことに、あの酒に関わる人物を殺したのがわたしなのでね」
「…ッ」
 その笑わぬ瞳からは感情を読みとるコトもできない。
 止める間もなく耳に飛び込んできた内容に、ビクトールは舌打ちした。
「てめえなあ…」
 心底嫌そうな声が出る。
「なんです?それを知りたかったのでしょう?」
 確かに、理不尽な成り行きのわけくらい聞いて当たり前だろうと思ってはいた。
 だが、もっと面倒な事に巻き込まれるのは御免だった。怒りまかせに言うだけ言ってそれで済ませようとしたのはさすがに甘かったらしい。
「うざってえッ」
 楽しくもなんともない他人の過去。
 そんなモノを知りたいとは思わない。
「少し考えれば想像つく程度のコトですよ」
「んなこたあ、聞きたくねえんだよ!」
 しかし、ミルイヒの考えはちがうようだ。
「ほら、焦魔鏡の実験が行われたでしょう」
 ビクトールを無視して、たいして感情のこもらぬ淡々とした口調が話を続ける。
「あの時、被験地に関わる人間は地下牢に監禁していましてね」
「聞きたくねえっつってんだろーがッ!!」
 至近距離から顔面を狙った拳は紙一重で交わされ、金の髪をかすめる。
「彼らを逃がした反逆者は戦いの最前線に送ったんですよね」
 戦うというコトはきれい事ですまされないものがたくさんあった。
 誰もがそれなりに背負うモノがある。
「くだらねえ」
 他人に、ウィンディに操られていたから。
 本意ではなかったから罪が軽くなるとか、そういう問題ではないだろう。
 しかし、他人の気持ちを正しく理解してやれるほど自分は出来た人間ではないのだ。
「てめえの尻拭いはてめえでしろよな」
 そう、他人の荷物持ちまで手伝ってやる余裕なんて持ち合わせてはいない。
 冷たいコトを言っているとわかっていても、それが正直な気持ち。
『これ以上は御免だぜ』
「その言葉、一応、あなたにもお返ししておきますよ」
 含み笑いで返すミルイヒにビクトールは思わず眉をひそめる。
 それが酒をもらいに来たコトを差しているのだろうとすぐに気づく。が、他に思い当たるコトがないこともなかったのだ。
 しかし、これ以上は真面目に考えるのも馬鹿らしく。
「てめえとは…いいや、てめえらとは金輪際関わり合いになりたくねえところだな」
 指を突きつけ、すべてにケリをつけるべく宣言するビクトールに、
「そうしていただけるとこちらも助かりますよ」
 と、嫌味なくらい嬉しげな顔をしたミルイヒがそう応えた。


 *

 しわくちゃになった服に乱れた髪。
 顔はなんだか腫れぼったくて、体中から酒の匂いがした。
「夢じゃ、なかったか…」
 ベッドの上で膝を抱え、彼女は半ば夢見心地のままにぼんやり呟く。
 窓から差し込むかすかな月明かりを頼りに部屋を見渡すと何本かの空瓶が床に転がり、落ちて広がった本たちには踏み跡がついていた。
 そんなバカ騒ぎの名残に小さく笑う。
「さすがにすごいな…」
 なりふり構わず取っ組み合いのケンカをして。
 「おまえが飲め」と手当たり次第に棚から出してきた酒を瓶ごと相手の口に押しつけ合った。
 口に入った量も相当だが、頭から被ったのもかなりあっただろう。
『まるでガキだな』
 感情まかせに何か喚いた気もする。
 何を言っただろうかと考えかけて…彼女はすぐさま考えるのをやめた。
 顔が火照ってくるのを感じながら、どうせロクでもないことだったに違いないと思う。
 恥ずかしいといえば、疲れ果てて相手より先に倒れてしまったらしいコトもそうだった。
 自分でベッドまで歩いた記憶がないということは、運んでもらったのかもしれない。
「まだまだガキだな。私も」
 今度は声に出して呟き、『本当にそうだな』と苦笑する。
 しかし、疲労に気を取られているおかげか、いつもよりそう落ち込まずにすんだ。
『そういえば…』
 あのワインボトルはどうなっただろう?
 しくりと胸が痛む感覚を思い出しながら、目を凝らす。
 そして、彼女は探し物が床に転がるモノとは区別するようにきちんと机に置かれているのを見つけた。
「………」
 ひとつ息をついてから机に歩み寄り、手を伸ばす。
 昨日、残したままの書類の横に栓までして置かれたワインボトル。
 中に少しだけ酒が残っていた。
「よく残っていたものだ」
 あの騒ぎで中身も無事とは。
 深く考えたくはないが、あの男が気を回したのだろうか。
『らしくない気遣いだな』
 小さく笑いながら、戸棚から新しいグラスを用意する。
「そんなに昔のことじゃないのにな…」
 この瓶を見ただけで。
 この香りを嗅いだだけで。
 思い出すのはこの酒をいつも一緒に飲んでいた友の姿。
「………」
 彼女は淡い色の液体をグラスに注ぎ入れ、もはや呼ぶことのなくなった名を小さな声で囁いた。
 静かにグラスを傾け、口に含んだ酒をゆっくりと喉に送り込む。
 胸がしくりと痛んだ。
 無くした時を悲しいと思うのも変わらない。
 それでも、前よりほんの少しだけ痛みが和らいだように感じるのは気のせいだろうか。
「…懐かしいな」
 今なら、思い返すことができた。
 この酒の味を。
 大切な記憶を。
 忘れたくなどないのに、思い出すのが辛いとしか思えなくなっていたモノたち。
 そして、固く厚い殻と鋭い刺に覆われていたこの想い。
『今なら、懐かしいと思うことができる』
 疲れ果てて、感情が麻痺しかけているおかげだろうか。
 それとも…。
『なぜだろうな』
 本当に信じがたいことではあるが。
 これまでの状況を打ち壊したのは、理解しがたい男の傍若無人な振る舞いらしい。
『すごく理不尽な気がする』
 かなりひどいコトをされたような気がしていた。
 それなのに、不思議とすべてを許してしまっている自分に彼女は苦笑した。
『だが、礼は…言いたくないな』
 新しく胸に生まれたのは痛みだけではなくて。
 そこには亡くした人を想うやさしい気持ちがあった。
『借り一つということにしておくか』
 そんな律儀さが、相手の好まぬ面倒事に発展するなどとは思いもせず。
 まだ誰も見たことのない穏やかな微笑みを浮かべて、彼女は静かにグラスを見つめていた。



 END