| 「ビクトール」 俺の名を呼ぶ声が聞こえた。 その時ちょうど俺は自分の部屋で読みたくもない本を開いて、ぼーっとしているところだった。 書かれている文字を流し読みするどころか、ただただ紙のページを見ていただけってなもんだ。 だから、ちゃんと俺の名前は聞こえていたし、それに応えて振り向くヒマもある。 それでも振り向かなかったのは声をかけてきたのが苦手なヤツだったからだ。 そして、ふと気づく。 こいつはこの間とまるきり逆のシュチュエーションじゃねえか! 俺はこっそりほくそ笑んだ。 『仕返ししてやれ』 後ろ姿を見ただけじゃあ、俺でも真面目に本を読んでいるように見えるに違いない。 本を読んでるフリして無視してやる。 そんでもって、俺が感じたみたいにイライラしやがれ! そしたら、俺サマが大人の余裕でにっこり笑って返事してやろうじゃねえか。 「ビクトール…?」 少しだけ低くなった声が俺の名を呼ぶ。 俺は食い入るようにして本のページを睨みつけた。 一所懸命に本を読んでいるフリ。 じいいいいい〜っ。 ぐむむむむむ〜っ。 …………………。 ……………。 ………? いつまでも続く沈黙。 しかもやたら空気が重い。 ページをめくる音だけが部屋に響いていた。 それがやけに不自然な気もして、俺の神経はますます尖る。 息をするのもめちゃくちゃ気を遣う。…って、なんか間違ってねえか!? なんで俺がこんなに気ィ遣ってイライラしてんだ!?オイ。 おかしい…おかしすぎる!! あの野郎はいったい何してやがんだよッ! もう一回声かけるなり、肩を叩いてくるなりなんなり、するだろ!?…ふつうは。 それか諦めて帰ってくもんだろ!? 戸口から動こうとしない気配に俺はとてつもない圧迫感を感じた。 ぐううううう〜っ。 どうするよ、おい。 ……………。 ………。 くそっ! 仕方ねえっ!! すげえ悔しいが、これ以上は拷問に近い。 俺は本を読むポーズで固まっていた体をゆっくりと動かし、さも今気づいたばかりだというように振り返った。 しかしな、そいつはまるでからくり人形のようにぎこちない動きだった気がする。 それでも相手には気づかれずにすんだんだから喜ぶべきか……いや。 ふっふっふ。 すげえ腹立つ!!!! 「バレリアっ」 俺が声を上げると、あいつはごく自然に手元の書類から目を上げた。 軽く足を交差させ、壁に背をあずけた姿勢のまま、 「もう一区切りついたのか?」 平然とそんなことを聞いてくる。 一区切りもなにも、こんな本俺が読むわけねーだろッ!!と怒鳴りそうになるのを俺はぐっと我慢した。 こいつはこいつなりに気を遣って待っていたってことなんだろう。…たぶん。きっと! しかし、俺の中の何かが今にも切れそうな音を立てていた。 うっがあっ、ストレスが〜〜〜っ!! いや、こ、こらえろっ! こらえるんだっっ!! 俺は爆発しそうになる気持ちをなんとか押さえてバレリアを見た。 「何かオレに用かよ」 努力に反して声と頬が引きつる。 バレリアはというと、読書の邪魔をしたせいで俺が怒っていると思ったようだ。 「すまないな、邪魔をして。用件はこれだけなんだが」 そう言って持っていた書類の束を見せる。 「各部隊への配給に関するものだ。チェックが済んだら軍師殿まで届けてほしい」 ごく事務的な口調。 別にこいつが悪いんじゃないと…たぶん、そうだとしても、腹が立った。 「そんだけなら、さっさと用だけ言って置いてけばいいだろーがっ」 半ば八つ当たりだとわかっていて、吐き捨てるように言う。 それでもバレリアが気分を害した様子はなかった。 「それはそうだが、珍しく本を読んでいるおまえの邪魔をするのは気が引けた」 そう言って、わずかに唇の端を上げる。 「おまえが賢くなるのは喜ばしい事態だからな」 「−−−−ッ」 ほんっとうにそいつは単なる事実を言っただけか!? すっげえ悪意を感じるのは俺の被害妄想か!? こいつっっ!! 事実と皮肉が微妙にブレンドされているのか、俺にはその境目を見分けることができない。 そいつが俺に最大級のストレスをプレゼントしてくれる。 「書類確認は今日中だからな。ビクトール」 殺気だった俺の視線に気づかないはずないだろうに飄々とした態度を崩さないバレリア。 バレリアは大人だった。少なくとも物事に動じにくいという点ではかなり大人だった。 そして、俺だっていい年した大人だった。 ここでこいつを殴っちまったらガキ同然ってことになっちまうとしても。 くっそー、殴ってやりてえ!! 部屋を出ていく後ろ姿までの距離を測りながら、俺はぶるぶるとこぶしを震わせた。 『俺はガキじゃねえぞ』 大人だ、おとな!!! バレリアの姿が視界から消えるまで我慢しきってから、俺は大きく息をついた。 ちゃんと寛容な(?)大人の態度を貫いたぞ!! 今日は誘惑(?)に負けなかったぜ!! 俺だってやれば出来るんだぜ。 はっはっは。 『−−−−』 なんか。 すっげえ空しい気が…するが。 そんなもんは深く考えちゃいけねえっ! それにこんな不愉快な出来事はさっさと忘れちまうにかぎるぜっ!! なら、ここはちょっとばかしひと眠りするのが一番だろう。 『くっそ〜、俺は負けねえからなっっ!!』 その後、俺がどんな夢を見たかは誰にも秘密だ。 しかし、その夢のせいで書類提出が遅れてマッシュに小言を食らうハメになっちまうなんて、この時の俺はまったく思ってなかったけどな。ふっ。 END |