雨が降っていた。
 朝から降り続く激しい雨が砦の外壁をうるさく打ち叩く。
 空は昼間だというのに灰色どころか、真っ黒だ。外での訓練も中止され、俺は余りある時間をつぶすために書庫から本を借りてきた。
 ペンとインク壺しか置いてない小机にランプを用意する。それくらい部屋の中は薄暗かった。
 雨の音と湿った匂い。
 静かすぎるくらいの沈黙に俺はふと昔を思い出す。
 そう、初めて本なんてものを読んだ時のことなんかを。
 たまにはこうしてしみじみとした感傷にひたってみるのも悪くない。
 今日一日はそうして穏やかに過ごすか、と思っていたそばから俺の予定は崩れ去った。
 廊下をどたどた音を立ててやってくる足音がその第一歩。
「フリック!!悪ィがランプ貸してくれっ」
 ばんと力いっぱいに扉が開け放ち、そんな無遠慮なコトをほざくヤツに俺は顔をしかめる。
「ランプなら使用中だ。おまえ、自分のはどうしたんだよ」
「落として割っちまった」
「いったい何個目だよ…」
「だからな、物資の無駄遣いだとかで新しいのはもらえねえし、誰も貸してくれなくてな」
 そりゃそうだろうよ。
 俺だってみんなの気持ちがわかるからな。
 …って、俺が承諾したわけじゃないのにおまえのその手はなんだ!?
 今にもランプを掴もうと伸ばされた手を俺ははたき落とした。
「てっ。なにしやがるっ」
「それはこっちのセリフだろーがッ!俺が使ってるのが見えないのかよ」
「おまえなら代わりのランプくらい簡単に用意できるだろ」
 だから、これはオレのもん、と言わんばかりのずうずうしい態度に俺は眉をつり上げる。
 こいつ相手にムキになっても疲れるだけなのはわかりきっていた。が、引いていたら引いたで図に乗るヤツだから油断ならない。
「そーゆう問題じゃねえだろ」
 俺はむかむかしてくるのをなんとか押さえつける。
 他人様の予定を真っ向から潰しにきておいて、そのふてぶてしさはなんだ!?
「おまえというヤツは…」
「わかった!わかった!!」
 俺の小言を途中で遮り、ヤツは肩をすくめる。
「仕方ねえヤツだなあ」
 その、俺の方が悪いみたいな態度はなんだ!?
 仕方ねえどころか、救いがねえのはおまえだろうがッ。おまえ!!
「オレサマが問題を見事に解決してやるよ」
「へえ、どうやって?」
 偉そうに胸を張るビクトールに俺の頬は引きつる。
「まあ、見てろって。あ、ランプとインク壺持ってろよ。フリック」
 そう言ってヤツは机の上に置いてあった物を強引に俺に押しつけると、小机の両端に手をかけた。
「そこにいるとぶつかるぜ」
 ひょいと持ち上げられた机の脚に頭を殴られそうになって、慌てて避難する。
「おいっ…ビクトールッ」
「よっと、ここでいいだろ」
 広くはない部屋の壁際からベッドの枕元へと机が運ばれる。
 しかし、その机はサイドテーブルというには大きく、脚も高い代物だ。
 すっげえ、変な配置っていうか、寝返りうった拍子に手とか頭とかぶつけそうな位置じゃねえかよ。
「勝手なことすんなよ。とっとと元に戻せッ」
「まあまあ、後で戻してやるさ」
 そう言って、ヤツは俺の腕からランプを取り上げ、机の上に乗せた。
「椅子、こっちに持ってくりゃ完璧だろ」
「…なにが完璧だって?」
「だから、おまえはそっち。オレはこっち」
 ベッドにごろりと寝ころんだビクトールはというと、なんと!分厚い本を広げてさっそく読み始めた。
 い、いったいどこから本なんて−−−!?
 あ、ああ、そういや脇に何か挟んでたような…?
 だ、だが、こいつが読書なんて何が起こったんだ!?
 夢を見てるんじゃないかと思ったが、目の前の光景はどうやら現実らしい。
 ……………。
 …まあ、こいつだって本くらい読むよな。
 同じ人間だし。
「…………」
 俺はため息をひとつついて、椅子を机の方へ引っ張り寄せた。
 まあ、言ってやりたいコトは山ほどあるが。
 せっかくだし、大目にみてやるか。
『本でも読んでもう少し賢くなりやがれってんだ!』 
 なんだか理不尽なモノがあったが、俺は当初の予定どおり、書庫で借りてきた本を読むことにした。
 精神集中!ヤツはいないものとして集中だっ!!
 …………………。
 ちらり。
 ……………。
 ちら。
 何かが視界の隅で揺れる。
 ……。
 ちらり。
 ……………?
 俺は訝しく思いながら、顔を上げた。
 そこには寝転がったビクトールの姿がある。
 目の端でちらちら動いていたのはこいつにちがいない。
『なんだってんだ!?いったい』
 ヤツは眉間にシワを寄せて本を睨みつけていた。
 かと思うと本を開いて持ったまま、ベッドの上をごろりごろりと転がったのだ。
 右へごろり。
 左へごろり。
 元の位置に戻ってきたら、本に目を向ける。
 それをページにして2、3ページの間隔でヤツは繰り返していた。
 どうやら、本を読むのがよほど苦痛らしい。
 文献なんてのより、現在進行形での実戦でこそ学ぶモノがあるんじゃねえかと豪語するヤツだから、本当のところ本なんて読みたくもないのかもしれない。
 それでも仕方がないから読む、といったところか。
 しかし、それにしては開いているところが本の半ばを過ぎているのが意外というか、よくわからない。
『何を読んでるんだ?』
 ええと…『史実に残る戦術総論』?
 本の背表紙に記された題名に俺は驚いた。
 これってバレリアの本じゃないかっ!
 この間、読む気なんかねえって言ってたくせしてどういう風の吹き回しだ?
「それ、面白いのか?」
 ついつい聞いてしまう。するとひどく不機嫌そうな目が俺を見返した。
「ああ?」
 それがただ単に本の内容が気に入らないせいなのか、それとも俺が途中で邪魔をしたせいなのかはわからない。
「あー、まあ、考え方がけっこう面白いかもな」
 仏頂面のまま、ビクトールは歯切れの悪い口調で答えた。
 その態度は腑に落ちないが、こいつにしちゃ上等な褒め言葉だよな。
「へえ、おまえがそんなことを言うなんて珍しいじゃないか。さすがにバレリアの蔵書ともなればいいのがあるんだな」
 今度、借りてみるかな。
 そんなことを考える俺の前で、ビクトールが変な顔をした。
「なんだよ、ビクトール。俺、変なコト言ったか?」
「いや、変っつーか、ちょっと意味が違うっつーか…」
 ごにょごにょと声が小さくなってゆく。
「ビクトール?」
「ああ、クソッ」
 ビクトールは鋭く舌打ちして、いきなり持っていた本を俺に投げてよこした。
「−−−−ッ」
 厚さ10センチ以上の本の重みに、椅子ごと後ろへひっくり返りそうになる。
 あ、危ねえっ!
「オレが面白いっつたのは本の内容じゃねえんだよ」
「はあ…?」
 どういうことだ?
 俺はわけがわからないままに本を開いてみて、思わず目が点になった、ような気がした。
 ページの隙間にびっしりと書き込まれた小さな文字。そこには本の内容に対する注釈や新しい戦術論などが簡潔に記されていた。
 これってやっぱりバレリアが書いたんだよな…?
「おっ、ここんとこに書き加えてある方法ってすげえ変!っていうかめちゃくちゃ変わってんな。…げえっ、こっちなんて新しいはずの戦法が二転三転して元の古いヤツに戻ってたりするじゃねえかよっっ」
 実戦で役に立つのかどうかはわからないが、なんてえのか、すごい。
 なんとなく予想はついていたが、バレリアって勉強家だな。
「はー、バレリアってやっぱ、すごいヤツだな」
「だな」
 ……………。
 ………?
「お、おまえ、今、なんて言った?」
 俺は信じられない思いでビクトールを見た。
「おまえ、バレリアがすごいヤツだって認めるのか!?」
「それじゃいけねえか?」
 じいいいいっと見つめる俺に、ビクトールは苦笑してそう言った。
「性格は悪ィが、口先だけのヤツじゃねえからな。剣の腕も良けりゃ、とっさの判断も的確だ」
「ほんっっとうにそう思ってるのか!?」
 あれだけ仲が悪くて、毎日ってくらい自分からケンカをふっかけてるくせに?
 この時もやっぱり俺は変な顔をしていたかもしれない。
 ビクトールのヤツはそんな俺を見て、馬鹿のように大口あけて笑いやがった。
「好き嫌いを別にすりゃ、あれほど出来たヤツもいねえだろうよ。それくらいはオレにだってわかるぜ」
 言いながらも唇の端が少し歪んでいるのは、そう認めてしまうのが癪というか、やっぱり少しは不本意に思っているからだろうか?
 それって…。
「好き嫌いは別って言ったが、おまえ…バレリアのこと嫌いなのか?」
 なんとなくそんな気はしていたが。
 改めてそれを事実として突きつけられてしまうと俺は少しショックだった。
『バレリアの方はちがうってのになあ』 
 なんだかもったいない気がする。
「嫌い、ねえ」
 呟くように言って、ビクトールはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ビクトール…?」
「まあ、好きじゃねえわな。ムカつく野郎だしな。だがまあ、嫌いっつーほどじゃねえだろ。少なくともこの世から抹殺したいなんて思わねえぜ?」
 おいおい、抹殺って。物騒なコトを基準にすんなよ。
 でも。
 嫌いじゃなかったのか。良かった。
 …って、あれ?
「そう言って、おまえ、バレリアと殺し合いしてるじゃねえかよッ」
「あのなあ、殺し合いじゃなくて単なる打ち合いだろ」
 平然と言ってのけるビクトールを俺は睨みつけた。
「い〜やっ!あれは殺し合いだッ!!」
「そう見えるだけだろ。こっちは別に本当に殺す気はねえんだぜ?」
「あったり前だろーがッ!!」
 あ? なんっか…どっか変、か?
 嫌いじゃなくて。
 殺すつもりもなくて。
 でも殺し合いに見えるくらい−−−真剣な剣戟戦。
「ちょいと本気で腕試ししてるだけだ」
 ちょいと本気で腕試し?
 たとえ腕試しだとしても、あれは過剰すぎるっていつも言ってんだろ!?
 しかも、他のヤツとやる時とは違ってすげえ目してんだよ。おまえは。
 それでも、嫌いじゃなけりゃ、殺すつもりもないってんだな!?
『わからねえっ!!』
 バレリアもこいつもマジでわかんねえぜ。
 嫌いじゃないならいいか、なんて思ったこともあったが、事はそう簡単に片づかないらしい。
 世の中、そう甘くないってコトかよ。
 俺はがっくりうなだれる。
 なんか、すっげえ憂鬱。
 うっとおしく降り続く雨にますます気が滅入ってきた。
 平穏な時間が戻ってくるにはまだまだ時間がかかりそうだよな。
 はははは……………はあ。



 END