「申し訳ありませんが、これ以上はあなたにつきあいきれません」
「え?」
「転属願いを出しました」

 いつもと変わらぬ表情で淡々とそう告げる。
 それはあまりにも言葉の内容とそぐわない気がするのだが、彼女らしいといえば『らしい』態度だった。
 しかも、既に『過去形』とは。
 本当に彼女らしくて、それ以上の言葉を返すことができない。
 彼女が軽い気持ちでそんな言葉を告げる人間ではないと知っているから、なおさらだった。
 それでも、引き留めたいと思うのが本音。
『何か言わなければ!』
 しかし、なにをどう言えばいいんだ!?と思っているうちに彼女はいつものように軽く頭を下げて、くるりと背中を向けた。
 ほんの数歩の距離はいつの間にか数メートルの距離になり、声も届かないほどの距離になる。
 焦りと絶望感が胸を締め付けた。そして…。

「リザ!」

 叫ぶ、そんな自分の声で彼は目覚めた。
 それは本当にイヤになるくらいリアルすぎる『悪夢』だった。


 *


 定刻5分前。
 いつもと違う悪夢を見た後でも、彼はいつもと変わらず同じ時刻に執務室へ滑り込んだ。
 そこにはいつもどおりに一日の準備を既に整えた副官の姿。
 必要な書類を束にして、スケジュールの書かれたファイルに目を通している。そんな彼女は家を出る時間も彼より30分早い。
「おはよう、中尉」
 彼女は執務室に現れた彼の姿を見ると少し不思議そうに目を細めた。
 それはそうだろう。ほんの数時間前まで共に過ごした相手がその日、休日であることを彼女は知っていたのだから。
「何か忘れ物ですか?」
 一日の始まりの挨拶ではなく、そう問う。
「今日はお休みだったはずですが…」
「ああ。一日のんびりするはずだったんだがね」
「…?」
 ロイはそのまままっすぐ彼女のそばまで来ると、すっと手を伸ばした。
「…!?」
 驚きに目を見張る相手にかまわず、頬に触れる。
 しかし、それはほんの数秒のことで、頬に触れた手はすぐ当たり障りのない場所、彼女の肩に移された。
 唇から安堵の息がこぼれたのは無意識だ。
「…よかった」
「なんなんですか?大佐」
「………」
 怪訝そうに言う中尉を見下ろし、ふう…と漏れた今度のそれはため息だった。
「大佐?」
「イヤな夢を見た…」
 呟くように言うと、中尉はきゅっと眉根を寄せて肩に置かれた彼の手を払った。
「たかが夢くらいで、そんな深刻そうな顔しないでください。何事かと驚くじゃありませんか」
 少し腹立たしそうに言って、興味はないとばかりの態度で横を向く。
 そんな恋人の様子に思わずロイは眉を上げた。
「ただの夢じゃなかったんだっ」
「夢は夢です」
「君が…」
 とっさにそこまで言って、彼はハッと言葉を引っ込めた。
 しかし時既に遅く、不機嫌さを隠そうともせず、中尉が彼を睨み上げる。
「私が…?」
「い、いや…」
「また私が死ぬ夢でも見ましたか?」
「ち、ちがうっ!」
 以前の経験を思いだし、ロイは勢い込んで否定した。
 その時、彼女はこう言った。
『私は間単に死ぬほど弱くないつもりです』
 と。
 それでも、不安が拭えぬ彼に、彼女が次に告げた言葉は衝撃的だった。
『それでは、その夢、予知夢なのかもしれませんね』
 にっこり笑って心臓にくるセリフを吐いた。
 応えた言葉はほとんど反射的なものだった。
『そんなことがあるはずないだろうっ』
『なら、気にする必要ないでしょう』
 たかが夢ごときに捕らわれるなどくだらない、ということらしい。
 確かにそれはそうなのだが、割り切れない気持ちを抱くこともあるのだ。
 とはいえ、そんな風に心臓に悪い応答をそれ以上交わしたいなどとはロイも思わなかった。
「では、どんな夢を見たんです?」
「………」
 彼は軽く目を閉じた。
 正直に告げて、どんな展開が待っているのかを考えるのはナカナカ心臓に悪そうだった。
「帰る…」
 つまらない夢を、と笑われるかもと思いつつも、どうしても彼女の存在を確かめたくて出勤してみたのだが…。
 もしかしなくても、事態はもっと悪い方に進むのかもしれないと彼はようやく気づいた。
「大佐」
 服の袖が捕まれる。
 にこやかに微笑む中尉の笑顔は無敵の迫力を伴っていた。
「正直に言ってくださらないなら、仕事をしていただきます」


 *


 とても天気の良い昼下がり。
「なあ、中尉。振り替え休暇の申請は有りだったかな?」
「有りでしょうが、取れるのは何ヶ月か先じゃないですか?忙しいですからね」
 まったく気のない調子でダラダラ仕事をしていた上司に、副官の無情な言葉が返る。
「わたしのせっかくの休みが…」
「あなたが悪いことするからですよ」
「だからっ、してないと言ってるだろう」
「それなら、あんな夢、見るハズないでしょう」
「だからっ!それは違うと何度も……………」
 そう、もはや何度目であろうか。
 既に何度も繰り返された口論を再開するむなしさにロイは口をつぐんだ。
 そして、ため息。
「そもそも、君が前に『イヤになったら転属願いを出す』と言ったのが、忘れられないせいだと思うのだが」
「………大佐、私のせいにしますか」
「そうじゃないが…アレだ。今となっては君が転属する可能性はゼロだと思いたいんだが…どうなんだろうな?」
「………」
「…リザ」
「やめてください」
 小さな声で不愉快そうに制止の声をかける。
 それでも催促するようにロイが見つめていると、仕方がないとばかりに吐息をついて、そして、彼女は小さく微笑んだ。
「そうですね。…転属の可能性はゼロです」
「そうか…」
 ホッとかすかに吐息がこぼれる。
 しかし、そこで終わらないのが強者ホークアイ中尉であった。
「でも…」
『でも?』
「もし、そういうことになるとしたら…」
『そういうこと?』
「私はさっさと軍を辞めて田舎にでも帰って、けっ…」
「『けっ』!?」
 思わず、椅子を蹴立てて立ち上がるロイからすっと顔をそらして、彼女は澄まし顔で応える。
「まあ、その可能性は低いと思いますから」
「ちょっと待て、中尉!『け』の続きはなんだっ!?」
「さあ、なんでしょうね」
 微笑むばかりで、答えない。
 これではまたイヤな夢を見るに違いないとロイは思ったが、意外なことに彼がこの手の悪夢を見ることはなくなった。

 その理由が、
『彼女と対等につき合える男が想像つかなかったため』
 だというのはロイだけの秘密である。


END