窓の外へと目を向けると、広がる闇に白い月が浮かんで見えた。
とても静かな夜に彼はほんの束の間、時を忘れて月を見ていた。
別にそれが綺麗だとか何かの感慨を抱いたわけではない。
ただぼんやりと。
見るとはなしに見ていた。
そう、ちょっとした現実逃避というか、息抜きに近い行為だったかもしれない。
それでもふと気づけば、持ち合わせた知識がとめどなく流れ続ける川の水のように頭の中を駆けめぐっていた。
月を構成するだろう成分についてだとか。
星々の距離についてだとか。
天体の精密なミニチュアを作るにはどこまでが可能か?とか。
特に目的を持たない思考は漠然としながらも、次々に連鎖反応を起こしてとめどなく続く。
そのいっそ病的なまでの思索行為に彼は苦笑した。
『物』自体に感じるはずのキレイだとか心安らぐとか、そういう感情は昔に比べてずいぶん薄れてなくなりかけていると思う。
薄くなっただけで、まだ完全に失ったわけではなかったが。
そんな感覚よりも『何か』に出くわした時にその『物体』の構成成分や仕組みを探ってしまうことの方が、彼にとっては息をするように自然で当たり前のことになっていた。
その現状に、不満を感じたことはない。
ただ、あまりにもごくふつうの人間とは違う作用に『これも錬金術師のサガというヤツだな』と時々、皮肉な気持ちになるだけのことだ。
「大佐」
よく聞き慣れた声が淡々とした響きを宿したまま、呼ぶのが聞こえた。
わかってはいたが振り向くのが面倒で、聞き流す。
すると、椅子を立つ音に足音が続いた。
「大佐、既に10分以上、経過しました。休憩は終わりにしてください」
その言葉に、彼はこぼれそうになるため息を噛み殺した。
ちょっと余所見をしただけだというのに時間まで計られているというのは、なんというのか…勤勉すぎる副官を持つのも大変だと思う。
さらに聞こえないフリをしていたら、耳を掴まれ、引っ張られた。
「…ッ」
なんてことをするんだ、という驚きと。
遠慮のない力任せの行為に恨みがましい目を向けたが、鋼の心臓を持つかの副官は涼しげな顔のまま、持っていた書類を差し出した。
「こちらのぶんに先にサインをお願いします」
「…………」
通常の勤務時間を大幅に越え、残業にまで付き合ってくれている副官が相手では彼も目で訴える以外、強い態度に出ることはできなかった。
やれやれとため息をつきながら、差し出された書類に目をやり、つい先程まで使っていた万年筆を手に取ろうとして彼は動きを止めた。
どこかに転がってしまったのか、無意識にでも片づけてしまったのだろうか?
いつもの万年筆が見当たらない。
とはいえ、すぐ近くにもう一本赤いインクが入った万年筆があった。それをちょっと錬成し直し、黒のインクに変えてしまえばいいだけのことだった。
別にそれほど意識してのことではなかった。
ほとんど何も考えずに赤の万年筆に手を伸ばしかけ、
「大佐」
今度こそ、鋭く座った声に、彼はギクリとした。
「万年筆なら、ここに」
カサっと小さな音を立てて取り除かれた書類の下から、簡単に出てきた紛失物を見ながら、『しまった』と感じる。
「なんでも簡単に錬成ですませていると、退化しますよ。大佐」
退化とは、これまたイヤな言葉である。
遠慮のない声は突き放すように冷たくて、視線とて彼の行為を責めるように冷ややか極まりなかった。
それでも…
「…ありがとう。中尉」
見つかった万年筆をつまみ上げ、彼は苦笑しながら書類にサインした。
気まずさは覚えても、不思議なほど腹は立たない。
自分の副官がこんなことに、どうしてこれほど怒るのか?
その理由がまったくわからなかった時は、苛立たしさから怒鳴り返したこともあった。とくに彼女が女性であったこともまた彼を戸惑わせる原因だっただろう。
物質を変化させることで、まったく新しい物を作り出すことも可能な錬金術は見る者を驚かせるのが常だった。それは恋人とのデートで使えば、何もないところから花束を出してみせたりといった洒落た演出にも使える。そういうコトに喜ばなかった女性を彼は見たことがない。
だから、錬成の場面を見ても最初から「便利ですね」の一言で済ませ、それ以上の関心を持たなかった副官には正直、驚いたものだった。
そしてまた、彼女にとって彼は『ちょっと便利な特技を持った上官』にすぎず…憧れどころか、怖れも偏見も持たず自分の傍らにいられる精神構造に興味を覚えた。
「何か?」
サインの済んだ書類を渡しながら思わずまじまじと見上げてしまった先で、わずかに嫌そうな顔をして、中尉。
彼は「なんでもない」とちょっと笑って視線を机上に積まれた書類に戻した。
『思い違いでなければ…』
この生真面目な副官が彼の錬成に対して不快感を示すようになったのは、『あの時』からだ。
たまたま錬成の材料が足りず、発火布製の手袋を使ってしまった時から。
彼女の目はいつも錬成後、失われた物を確かめるように辺りを彷徨う。
そうと気づいてからは怒るに怒れなくなってしまった。
それどころか…
「こちらの書類は先に事務に回しておきますね」
「ああ…頼む」
そんなわずかな一言に、彼女はふっとかすかな笑みで応えて一礼する。
それはいつもと何も変わることのない日常的なひとコマだ。
時々、目を奪われてしまう愚かな自分がいる以外は、いつもと同じ。
「まいったな…」
部屋に一人残され、静寂のなかで彼は呟いた。
とりとめのない思索の中には無論、禁忌とされる人体錬成に関わるものも混じっていた。
それは『人間』を見ている時にふと過ぎる考えであり、特異な性質を持っているかに思える副官を見ている時もまた例外でない。
しかし、その度に思うのだ。
「不可能、だな」
あの真っ直ぐに自分を見据えてくる意思の強い瞳も。
辛辣なくせに、誰より思慮深い思いを込めた言葉を放つ唇も、なにもかも。
たとえすべての構成成分がわかったとしても、造り方など想像すらできない。
『彼女』をそのまま再現するなど不可能に違いないと思う。
「…………」
闇夜に浮かぶ白い月。
ただの物体であるそれと『彼女』と。
果たしてどちらの方が手に入れがたいのだろうか?
ふと思いついたわりには難問中の難問だと、彼は密やかに笑った。