潮騒

 自らが呼吸するわずかな音がひどく耳障りで。
 響く鼓動の音さえ、うっとおしく感じる。

 そんな静寂の中で、黒く闇に沈んだ『海』の夢を見た。


 *

「大佐…そろそろ起きてください。大………、ロイ?」
 肩にそっと触れながら、穏やかに告げる声にゆっくりと目を開ける。
 明るい日差しが少し眩しくて、反射的に手をかざしていた。
「んー…」
「別にこのまま留守番でも構いませんが?」
 どうします?というニュアンス。
 いつものことながら、そのつれない言いぐさにわたしはちょっと笑ってしまう。
「嫌だ」
「嫌なら起きてくださいね。こちらは準備できてるんですから」
 それを肯定するように犬の吠え声がワンと響いた。
 このままでは本当に置いてきぼりをくらいかねないと、わたしは目覚めを促すように目をこすり、うんと体を伸ばした。
 彼女が部屋の片づけをしている間、軽く目を閉じていただけだったのが、いつの間にやら本格的に寝入ってしまったらしい。
「んー、わかった…起きる。わたしも行く」
 そう答えはしたものの、太陽の光を受けてほどよくあたたまったソファは心地よくて離れがたい。今更ながらに、この家の主であるホークアイ中尉の好みは家具に至っても良いものだ…などと思ってみたり。
 そうしてぼんやり座り込んだままのわたしに、彼女は呆れた視線を向けた。
「寝過ぎですよ」
「そうなんだが、あんまり気持ちがよくて…」
 春だから、なんてのは理由にならないだろうと思う。
 しかし、『春眠暁を覚えず』なんて故人の言葉を名言だと思うのはまさにこんな時だ。
「それと…」
「それと?」
「久しぶりに海の夢を見た…」
 ごく自然に口元に笑みが浮かぶのを感じた。
 そんなわたしを彼女は戸惑うように見返して、「良い夢だったみたいですね」とどこかホッとしたように微笑んだ。
「私も昔、何度か夢に見たことがあります」
「そうか」
「あまり行ったことのない場所なのにどうしてだろうと思いました」
 その時のことを思い出すように首を傾げ、苦笑する。
 すぐにも散歩に出たそうに待っている飼い犬の頭を撫でると、彼女はわたしの方へと歩み寄り、隣に腰を下ろした。
 腕と腕が触れあう程度の距離で静かにわたしを見返す。
「ああ、わたしは今でも不思議に思っている」
「確かな理由はよくわかりませんが、海の夢を見るのは…ロマンチストな知人の言葉によると『血液が血管の中を流れる音が波の音に似ているから』だそうですよ」
「?そうか…?というより、血液が血管の中を流れる音なんて聞いたことがないが…」
 不思議な話だった。
 顎に手を当て、記憶を探るわたしに彼女は頷く。
「私もです」
「心臓の音が時計みたいだと思ったことはあるぞ」
「ええ、私も。でも言われました。ものすごく小さな小さな音で聞こえたと思ったことがなくても、その音は確かに存在するはずだって」
「無意識の知覚、ということか?」
 思わず、唸ってしまう。なにやら話が難しい方向へ行ってしまった気がして、ため息さえも出そうになった。
 そんなわたしを見て彼女はくすっと笑い、
「血液の音、波の音、海…という連想もまあ、否定できないだろうということです」
 これで話は終わりだとばかりに口調を変えた。
「一応、納得していただけたでしょうか?大佐」
「小難しい話にすっかり目が覚めたよ。中尉殿」
「それは良かったです」
 作戦成功とばかりに嬉しげな顔をする。
 そうしてソファから腰を浮かしかけた彼女の腕をわたしはつかんだ。
「…?」
 腕をつかんで引き寄せ、そのまま彼女の体を抱きしめる。
 その素早さはもう得意技といっていいほど。
「ロイ!?」
「んー」
「なんなんですか、いきなり」
「なんとなく」
 そう答えると、逃れようと腕の中でじたばたしていた体は動きを止め、代わりに伸びてきた指に頬を引っ張られた。
「いいかげんにしてください」
 触れる近さに感じるのは互いの熱と、呼吸と、鼓動。
 中尉が教えてくれたロマンチストの提言は真実かもしれないと思う。
 昔、自分が身を置いたあの静寂の中では自らが呼吸するわずかな音が耳障りで、響く鼓動の音さえうっとおしかった。
 そして、夢の中でいつまでも繰り返される波の音が何より不快だったのを覚えている。


 静寂の中で、黒く闇に沈んだ冷たい『海』の夢を見た。

 でも、それは昔のこと。
 さきほど聞いた波の音は穏やかで…


「もう行きますよ、ロイ」
 彼女の声がやさしく、耳に心地よく響く。

END






12のお題のひとつ「潮騒」

「波の音=血管を通る血液の音」…このモチーフはとある漫画家さんのお話からお借りしました。
そのお話を見た時、聞いたことあるかなあ、と真剣に考えたのですが記憶になくて印象深く私の中に残りました。
「鼓動=時計の音」というのは経験談から。今考えると不思議なほどに、子供の頃って「等間隔に響く音=どこにある時計の音がここまで響いてるんだろう?」って真剣に悩んだモノです。近くに時計がないのに音がするからね。
そういう意味でも子供と大人では物事の捉え方が違ってくるかな〜とかぼんやり再認識してみたり。
自分自身ではもう再確認できないのが残念だよね。

2004/4