「大佐、入りますよ」
いくらノックしても返事のない部屋の前で、彼女は不機嫌そうに眉を寄せてドアノブに手をかけた。
そして、あっさり開いてみせた扉に眉間のシワが一本増える。
これで鍵もかけずに外室、であればまた小言を言わねばならない。
ため息をつきつつ、部屋の中をちらりと覗き込んだ彼女はその場から一歩も動かないままにぱたんと扉を閉めた。
「…………」
ほとんど毎日といっていいくらい開け閉めする扉。
打ち付けられたネームプレートに『ロイ・マスタング』の名前があるのをもう一度確かめ、額を押さえる。
『このままこうしていても埒があかないわけだし…』
仕方ない、と腹に力を入れ直して毅然と顔を上げる。
それでも、カチャリと音を立てて開かれた扉の向こう、広がる雑然とした光景に彼女は思わず足の力が抜けてへたり込みそうになった。
『どうして…』
誰もいない無人の執務室。
彼女がそこを最後に見たのはほんの一時間ほど前だったハズである。
なのに、今やそこは足の踏み場もないほど書類が散乱していた。その書類に靴跡がついているのも問題ではあるが、倒れたインク壷のインクに染まっているのが朝確認したばかりの重要書類であるとか、千切れかけて机に引っかかっているのが…(以下同文)とか。
胃が痛くなる有り様に、彼女は今日何度目ともわからないため息をつく。
その他にも重たい机の位置が歪んでいることや、椅子が倒れていること、部屋の壁が所々焦げていることからして、ここで”何か”があったのは確からしい。
一番それらしい状況設定では『暴動』とか『乱闘』とか。
ただ、そういった騒ぎがあったにしては周辺が静かすぎるし、彼女に連絡が来ていないのもおかしかった。
『本当に…』
何をしていたのか。
いくらなんでも『遊び』や『ちょっとふざけて』でこんなコトはしない人だと信じている。…というか、信じたいのだが。
でも、もしそうなら…
『やっぱり一発お見舞いすべきかしらね』
真面目な顔つきで、書類を拾い集めながらそんなコトを思う。
靴跡には消しゴムをかけてみて。
破れた書類はテープと糊でなんとか誤魔化して。
インクで汚れた書類は…書き直しを頼みに行かなければならないだろう。
『これは一発と言わず十発でも…』
無意識のうちに暗い笑みが唇をかすめる。
と、その時、”何か”を感じて彼女はピタリと動きを止めた。
『何かが…』
腕に抱えていた書類の束をそっと床に下ろしながら、ホルスターへと手を伸ばす。人影はない。
唯一、考えられるのは机の下、まだ彼女が見ていないそこに誰かが隠れているというくらいだったが…。
そんなコトがあるだろうか?
まさか、大佐…とか?
とにかくいつでも撃てるように安全装置を外した銃を構え、”気配”のする方へと彼女は油断なく近づいていった。
かさり、と小さな紙音。
やはり、誰かが、何かが…。
『いる』
「…ッ!」
大佐の執務机を回り込もうとし、パッと飛び出して来た小さな影に標的を定める。しかし、まさに引き金を引く寸前のところで彼女の指は止まった。
「にゃあ」
そこには小さな生き物が一匹。
可愛い声で鳴きながら、書類の散らばった床の上で不思議そうに彼女を見上げる------それは青い首輪をはめた黒猫だった。
*
机の上にちょんと座り込んだ黒猫が一匹。
漆黒の瞳で猫は彼女をじいいっと見つめていた。
「…………」
部屋の主が帰ってくるまでに書類の修正でもしておこうと机についたものの、すぐ間近から見つめられる居心地の悪さに彼女は肩を落とした。
やけに人慣れしているというか、見知らぬ場所にいるはずなのに猫には怯えたり戸惑ったりする様子はまったく見られない。
それどころか、彼女が手を差し出すと自分から頭を摺り寄せくる。
その手触りの良いつやつやした毛並みやきれいな青い首輪からしても、飼い主にとても可愛がられている猫だろうというのは簡単に想像がついた。
とはいえ。
首輪についた金属プレートに刻まれた文字に気づいた瞬間、彼女は思わず目を見張った。
『ロイ』
この場合、それがこの黒猫の名前というのはとても妥当な線だった。
『ロイ…ね』
その命名が偶然か、はたまた故意によるものなのか。
どちらにせよ、趣味が悪い。
『…と言ってしまうのは間違いよね』
相手がただの猫とわかっているのに、まるで『彼』が二人に増殖したような圧迫感を覚えた自分に問題があるのだ。
『でも』
でも、とため息をついて彼女は黒猫を見つめた。
珍しく靴下を履いたように真っ白な二本の前足といい、キラリと悪戯っぽく光る黒い瞳といい、どうしてこうも『彼』を連想させるような姿をしているのか。
確かに『彼』は優秀な錬金術師でもあったが、その錬成の結果、猫になったと思ってしまうほど彼女はバカではないつもりだ。
「それでも…」
似ているように思う。
ほんの鼻先で堂々と毛繕いしてくつろぎながら、時々、ちらりと伺うような目を向けてくるところとか。
どこかふてぶてしささえ感じさせる余裕の態度とか。
黒という色と名前のせいで余計にそう感じてしまうのかもしれなかった。
『でもまあ、このコは猫だし…』
こんな仕草をするのも当然で、可愛いく見え…ないこともない。
いや、本当はいつも猫に対して思うように可愛いと感じてはいるのだ。ただ、それをそうと素直に認めることができない”何か”があるだけで…。
『このコには罪がないのに…』
軽い自己嫌悪に陥る。
その間に机の上から、椅子に座った彼女の膝の上に下りた猫はそのまま丸くなってしまった。
『…っ』
ぴしいっ、と全身が緊張する。
膝の上にいるのはただの、普通の、猫!
いくらそう思ってみても、なんだか落ち着かない気持ちになるのは誤魔化しようがなかった。
とうとう、こらえきれずに口を開く。
「悪いのだけど、膝からどいてもらえるかしら?」
目を閉じてすっかりくつろいでいる猫に気づかせようと手をのばす。
すると、触れる前にその気配に気づいたように猫はぱっちり目を開けた。
逆に体を起こし、自分の方から彼女の手に頭を摺り寄せてくる。前足で伸びをするように体を伸ばすと、やわらかな頬の毛が触れた。
「ニャア」
しなやかな手触りは心地よかった。
撫でると気持ち良さそうに目を細める様子は猫らしくて、今度は彼女も素直に可愛いと思えた。元々、動物は好きな方である。
しかし。
「…ッ!!」
伸びをした猫の頭が胸に擦り寄ってきたのには、さすがの彼女も凍りついた。
それは多分に”猫”としてはごく自然の行動だったハズで。
ふだんの彼女なら何も思いはしなかったことだろう。
ただ。
その猫の名前は『ロイ』だった。
いくら猫だからと思おうとしても、抵抗感をすべて消し去ることはできない。
それでもなんとか平常心を取り戻そうと試みる彼女に、次なる試練が訪れる。
「ニャア」
鳴き声といっしょに猫との距離がぐっと近くなったと思った時には、何かが彼女の唇に触れていた。
一拍遅れてそれが猫の舌だと気づいた瞬間、
「------------ッ!!!」
彼女の頭の中は真っ白になった。
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*
「だから、どうしてわたしがあんなクソ猫を預からねばならんのだっ」
実に腹立たしそうに男が言う。
カツカツと固い靴音を廊下に響かせながら足早に歩く彼の引き締まった頬には3本の爪痕がうっすら赤く走っていた。
「仕方ないっすよ。名前がおんなじだってんですから」
投げやりな部下の返事に、憤慨も露わにこぶしを握りしめる。
「名前がどうだろうとわたしには関係ないだろうっ!」
「でも、大佐。自分と同じ名前の生き物が保健所行きってのも、あんましイイ気分じゃないっすしね」
「…………」
「ま、飼い主が見つかるまでの辛抱ってことで」
「司令部に飼い猫を連れてくるなどどうかしている」
「別に…近所の迷い猫かもしれないですし、ほら、美人の飼い主だったらどーします?」
「それは無論…」
そこでようやくしかめっ面を和らげ、言葉を継ごうとした瞬間、
「「!?」」
響いた銃撃音。
廊下の先から響いてきたそれに、彼らはピタリと動きを止めた。
的確なまでに等間隔で刻まれる銃声は既に馴染み深い。
その音が止んで数秒が過ぎても、二人ともそこから一歩も動かなかった。いや、正確には『一歩たりとも動きたくなかった』だ。
「大佐、急いで行った方がいいんじゃないすか…?」
「なんのためにだ…?」
「もしかしたら、刺客とか暴漢とか…」
「そうじゃなかったら、どうする?少尉」
散らかった部屋に激怒しているとか。
アノ猫が何か悪さをしたとか、etc..
残念ながら、そうである可能性の方がかなり高い現状を彼らはよく知っていた。
「…………」
無言のまま、くるりと背中を向けかけた部下の襟首を、ロイは捕まえた。
その後。
散らかりきった執務室で彼らを待っていたのは、おとなしく紐に繋がれた黒猫と貼りつき笑顔で始終、上官から目をそらし続けるホークアイ中尉であった。
しかし、ロイは不自然すぎる部下の態度に『事情』を察っするだけの勘の良さを備えていたし、そのうえ、ある一点に関しては非常に心が狭くできていた。
結果、数分後には今以上の大惨事が彼の執務室を襲うのだが。
「中尉、その、大丈夫かね…?」
おそるおそる室内を伺うこの時の彼はまだ、知らない。
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