音を立てて雨が降る朝は。
いつもより憂鬱で。
いつも以上に意地悪な気分になる。
*
「ごっくろーさん」
そんな声と一緒に肩を叩かれ、机に片肘をついて半ば眠りかけていたハボックは目を覚ました。
「んあ?」
口を開いた拍子に落とした煙草が机に触れる寸前で受け止める早業は、もはや条件反射に近い。彼は何もなかったかのように煙草をくわえ直し、まだ開ききらない目で辛そうにまばたきを繰り返した。
「あー、おはようさん」
見慣れた同僚にそう声をかけながら、腕の時計に目をやる。
時刻はAM5:55。
勤務交代の5分前というギリギリにやってきた同僚も、
「もう上がっていいぜ。ハボック」
と言うくらいの気前の良さは持っていた。
「ああ、そうする」
ハボックは椅子に座ったままうんと腕をのばして、あくびをこぼした。
そして、窓にくっきりと映っていた自分の姿に目を留める。
そんな風に室内の様子を映し込んでしまうくらい、窓の外は真っ暗だった。
思わず時間を勘違いしているのかと時計を確かめながら、ふいに聞こえてきた音に彼は納得した。
「雨、降ってるのか?」
締め切った部屋の中にまでかすかに伝わる雨音。
いつから降っていたのだろう?
「今日、休んでやろーかと思ったぜ」
「どしゃ降りなのか?」
イヤそうに眉間にシワを寄せるハボックに同僚は「そんなにひどくはない」と首を振った。
「傘、ないなら貸してやろうか?」
「おまえに借りると後々大変だからやめとく」
言って、ハボックはやれやれと立ち上がった。
夜勤明けに雨の中を歩いて帰る、というのは考えただけで気が滅入ってくる状況だった。
自然と動きも鈍くなってしまうところだが、それでも吸い終わった煙草を灰皿にギュッと押しつけ、新しい煙草に火を付ける手際の良さだけは変わらない。
「気ィつけて帰れよ」
そんな言葉に手だけ振り替えして、ハボックは詰め所を後にした。
早番の出勤時間はAM6:00、常勤でAM8:00になる。
そのため、まだ6時を少し回ったばかりの司令部はほとんど人気もなく、静寂に包まれていた。いつもならこのままさっさと着替えを済ませ、白み始める空を見ながら家路を急ぐのだが…。
廊下の途中で立ち止まった彼はひとつ息をついて、更衣室へではなく給湯室へと足を向けた。そこにもやはり人の気配はない。
しかし、彼は構わず、やかんを火にかけて湯を沸かした。そうして用意したコーヒー片手に三階の資料室へと足を向ける。
ふだんから鍵もかけられていないその部屋の扉は簡単に開いた。
『おっと…』
明かりの消えた室内はやはり真っ暗で、目が慣れるまで少し時間がかかった。唯一の頼りが、灰色に変わり始めた窓の外から届くわずかな光だけでは本棚や机の影を識別するのがやっとだ。
しかし、燃えやすいものがある部屋だとわかっているだけに彼は口にくわえていた煙草の火を靴底で消して、室内に踏み込む。
不確かな視界のなか、コーヒーをこぼさないように気をつけながら、なんとか窓辺までたどり着く。そうして、湯気の立つコーヒーに口を付けながら、彼は窓の下を見下ろした。
そこからは雨に濡れて黒光りする地面と幅広の階段−−−ちょうど司令部の正面入り口部分を見渡すことができた。そう、彼のいる資料室は正面入り口の真上にあたる場所に位置していた。
『この調子じゃ、一日雨だな』
そんなことをぼんやり考えながら、窓際の壁に肩を預けて立つ。
閉ざされた窓ガラスに、雨音はそれほど聞こえなかったが、地面の水たまりを叩く雨の量にハボックはうんざりした気持ちになった。
『もう6時半は回ったか…?』
居眠りしている時や、急ぎの仕事が入っている時はあっという間に過ぎ去ってゆく時間が、今はやたら長く感じられて。
彼は口寂しさをコーヒーで誤魔化しながら、持て余し気味の時間と静寂に時折、軽く目を閉じた。
そして、そんな自分自身の行動が滑稽で、彼は唇を歪めずにはいられない。
『オレもこんなとこで何してんだか』
せっかくの家に帰れる時間を無駄に使っている。
自覚はあったが、このまま部屋を出て家路につく気にはなれなかった。
なぜなら…
『あっ』
通りの向こうから近づいてくる影に、ハボックは目を細めた。
目に映るのは、闇にぼんやりと浮かび上がって見える暗い色の傘だけで、それの持ち手が誰なのかなんてわからない。
でも。
「今日はまたいつもより早いッスね…」
かすかな光に目をこらし、腕の時計で時間を確かめ、呟くように言う。
まだ7時にもなっていない。こんな中途半端な時間に出勤してくる人間はごく限られていた。
その中でも、まるで雨も水たまりもはねのけるような勢いでまっすぐに歩いてくる人物といえばハボックは一人しか知らない。
どうしてそんなに急いで歩いてくるのか?なんて。
どしゃ降りの雨の日だけに見られるその人の行動の理由は、深く考えるまでもないように思えた。
そして、いつもと同じに苦笑をこぼしてしまう。
『…馬鹿だよなあ』
誰が、とか。
何が、とか。
考えはじめるとキリのない言葉は苦笑で封じ、彼はそのまま傘の人物が階段をのぼってくるのを見ていた。
一歩を踏むリズムは見慣れて久しい。
結局、建物に入るまで一度も傘の主の顔は見えなかったが、『あの人』だと確信するには充分だった。
『ま、別にね…』
だからどう、というほどのことは自分にとってないのだが。
灰色に変わりはじめた空に視線を移しながら、ハボックはもたれていた窓辺からゆっくり身を起こした。
届く日の光に資料室の様子も先程よりは明確になる。
それでも、彼は何か声を出す気にもならなければ、何かリアクションをする気にもならなかった。
ただ入ってきた時と同じように、コーヒーカップを片手に机や椅子をよけながら室内を横切る。
それがここ最近の、雨降る朝の習慣。
音を立てて雨が降る朝はいつもより憂鬱で。
いつも以上に意地悪な気分になるだけ。
ただそれだけのことなのだと思いながら、ハボックは部屋を出るとそのまま扉を閉めた。 『そう…』
この扉の向こうに不機嫌そうな顔をした男がいることなんて。
オレは気づかなかったし、知らない。
*
「おはようございます、中尉」
「おはよう、少尉。…今日は遅いのね。残業?」
「ええ、まあ。そういう中尉はまた早いですね」
「ちょっと気になる書類があったものだから」
「そうッスか…」
「………?」
「いえ…大佐も中尉を見習ってくれたらいいんですけど。ほら、あの人、いっつも遅刻ぎりぎりに来るじゃないッスか。困るんスよね」
「…そうね」
笑みを混ぜた他愛のない会話。
それさえ意地悪く響くのはこの雨のせいだと、窓の向こうに広がる灰色の空を見上げてハボックはかすかに苦笑した。
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