春の陽気に誘われたように。
 穏やかに吹く風にのって、淡い色の花びらが舞う。
 窓から迷い込んできたそれがふわりと落ちたのは開かれたファイルの上だった。
 ファイルに綴じた書類の内容を黙々と確認していた視線をふと止め、彼女は顔を上げた。
『花びら…?』
 季節がらからして、ごく自然な出来事の一つのようだった。
 それでも思わず怪訝な面持ちになってしまうのは、彼女がいた執務室の窓からその花びらが指し示す木まではかなり遠く離れているからだった。
 ただ単に気まぐれな風がもたらした贈り物なのか、それとも…?
 巡らされた視線はまず開け放たれた窓に向けられ、そのまま自然と窓際の机で書類業務をこなしていた上官へと流れた。
 無駄口はたたかないものの、面倒くさそうに頬杖をついて書類を斜め読みしていた男はその視線に気づいたように彼女を見返した。
「ん…どうかしたかね?中尉」
「いえ、なんでも…」
 ありません、と彼女が言い終える前に、ひときわ強い春風が窓から吹き込んできた。
「…っ」
 視界を奪う花びらの乱舞。
 それは開ききった桜の花が、強い風にあおられ一気に連れさらわれてきたかのようだった。
 そんなはずはないとわかっていても、かすかな花の香りに包まれた気にさえなる不思議な感覚。
 名残の花びらがひらひらと床に舞い落ちるのを見届け、彼女は小さく吐息を吐いた。
 それは確かにとても綺麗な光景だった。
 しかし、そうと素直に思ってお終いにできないのは、これが本当に自然な出来事だと信じきれないせいだ。そして、なかでも一番有り得そうな可能性として考えられることはといえば決まっている。
「大佐…」
 いったいこの人は何を考えて、こんなことをしでかすというのだろう?
 理解不能な行為を問いただそうとした声はしかし、途中で遮られた。
「すごい風だったな。中尉」
 軍服の肩もその黒髪も、色の薄い花びらをつけたまま、こらえきれない笑いを口元に滲ませて言う。
 その笑みの理由を求めるように彼女は少し目を細めたが、厚い面の皮に浮かぶ表情はびくともしない。
「そうですね…」
 あの風が自然なものではなく、特定個人の作為的なモノかもしれないということにはかなりの自信があった。
 が、残念ながら、物的証拠はなにひとつない。
 証拠がないのでは、のらりくらりと話をかわされるだけでなく、それは言いがかりだとひどくヘソを曲げられるに決まっていた。
 彼女は肩口や襟に引っかかった花びらを払い落としながら、ほんのひとときで様変わりした床の様子に思わずため息をついた。
 これはやっぱり嫌がらせかしら?と思う。
「先に掃除したほうが良さそうですね」
「手伝おう」
 言うと同時に椅子から立ち上がる音がして、正直、驚く。
「熱でも出ましたか?大佐」
「おい!…自分の執務室だぞ。たまには掃除くらいしてもバチはあたらんだろう?」
 苦笑しながらそんなことを言う。
 さすがに散らかして悪い、と思っているのだろうか?
 それとも、これは本当に単なる風の仕業だったのだろうか…?
 迷いは尽きないが、いくら待ったところで答えが出るはずもなくて。
「では掃除用具を取ってきます」
 楽しそうな笑みを浮かべてひらひらと手を振る上官から目をそらし、彼女は背を向けた。
 そうして踏み出した足の下で色を変える花びらにふと意識は移る。
 だから…
「そうだ、中尉…」
「ハイ?」
 なにげなく掛けられた声に、なにげなく振り返ってしまったのは彼女のミス。その瞬間、
「ッ」
 スッと耳元を通り過ぎた大きな手と。
 揺れる空気の動きに、とっさのことではあったが何が起こっているのかを理解することができたのは彼女だから、だっただろう。
 ただ。
 その時感じた驚きも、動揺も、そうと相手に悟られるのは癪で嫌だという思いの強さもまた彼女だからこそ、だ。
 冷たく見えるとさえ評される眼差しで、まっすぐに相手を見上げる。
 それが感情を押し隠しているためと既に知っている男の目が、どこか愉快そうに見える気がして彼女はほんの少し眉間にシワを寄せた。
「ほら、取れたぞ」
 髪に触れるか触れないかのところを通り過ぎた指先が、淡い色の小さな花びらを一枚、つまみ上げて見せた。
 ほんのすぐ間近から覗き込んでくる黒い瞳は、緩んだ口元と同じように少し得意げで楽そうに笑っているようだった。
 それもこれもすべては自分の気のせいなのかもしれないと思う。
 でも、気のせいなんかですませたくないと思うのも事実。
「大佐」
「ん」
「大佐も髪についてますよ、花びら」
 これもまた仕方がない成り行きなのだとふと苦笑しながら、彼女は目の前にある黒髪に手を伸ばした。
 そして。
 遠慮なく、開いた手のひらでがっしりと目標物を掴み込む。
「…ッ!中尉ッ!?」
「すみません、大佐。花びらが髪に絡まっていて…」
「いっ…中、…」
「すぐに取りますから、待ってください」
 真面目ぶった声で言いながら、そこで彼女はこんな一言を付け加えておくことにした。
「ちょっとくらいハゲてもかまいませんね?大佐」
「桜」 -end


「桜」
ただの淡々なショートだったのですが、視点を中尉に変えて仕上げてみました。
色っぽく〜も可能でしたが、恋人未満で想定するうちにいつの間にやらこんなオチに。なんだか中途半端に殺伐とした二人の関係ですが…うーん、まあ、いいや〜。
あとは珍しく大佐が飄々としていて、確信犯な大人〜だったハズなのですが…。か、可哀想なヒトになりました(^_^;)。ごめんね、大佐。