バレンタインデイ

 2月14日。
 その特別な日に恋人から手作りチョコをもらいたいと思うのは、別に悪いコトではないと彼−−−ロイ・マスタング大佐は信じていた。
 それはごく当たり前の、しかもほんのささやかな願いだと思っていた。
 しかし、
「どこにそんなヒマがあると思うんです」
 分厚い書類の束を抱えた相手から返ってきたのは、そんな素っ気ない言葉だった。そのうえ、
「チョコレートが食べたいのでしたら、ハイ」
 どうぞと差し出された軍支給の非常食用チョコ。
 このあまりにも不測の事態に、彼はとてつもないショックを受けた。
 確かにここ数週間、仕事は忙しく、ちょうど製菓店ばかりを狙った放火事件も重なって、誰もが自宅に帰って休む時間すら削られている。
 そんな時に貴重な時間を減らしてまで、チョコを作ってほしいと思うのは愚かだったかもしれない。
 が。
 今年こそはどうしても手に入れたかったのである。
 ようやく恋人同士になって初めてのバレンタインでもあったし、付け加えるなら、これまでロイは一度たりとも…そう、たとえ『義理』でもその人からチョコをもらったことがなかった。
 だから。
「ヒマがあればいいんだな」
 2月14日までに仕事を片付け、部下でもある彼女が自由にできる空いた時間を作ってみせる!と彼は宣言してみせた。
 代わりに手に入れるのは恋人からの手作りチョコ。
 そう思えば連日の徹夜も耐えられたし、陣頭指揮を取って放火犯逮捕に貢献することも苦ではなかった。
 なのに…。
「タイムリミットです。大佐」
 腕時計の文字盤を示し、無情な声は告げる。
「2月14日、午前零時を過ぎました」
 かすむ目を凝らして読んでいた書類が手元から引き抜かれる。右手に握っていたペンさえ、丁寧に指から取り上げられた。
 かつて学舎で受けたペーパー試験を思い出したが、これほどの敗北感と絶望感を味わったのは初めてだ。
「中…」
 いくらなんでもこれはないだろう、と顔を上げようとして一瞬、視界が回った。
「…ッ」
 机に手をついたのはほとんど反射的だった。額の数センチ先で待ち受けていた固い木肌が視界を埋める。
 しかし、たったそれだけの動きにさえロイは息があがるのを自覚した。
 吐く息が。
 顔が、熱い。
「これ以上の無理は禁物です」
 額に触れてきた手の冷たさに目を細める。
 まるで氷のように冷たいはずの手が、この時ばかりはひどく気持ち良い。
 それはとりもなおさず、ロイ自身が平熱をはるかに上回る熱を出しているからにほかならなかった。
「風邪で病院送り、なんて自己管理を問われますよ」
 そう、今、彼を苦しめているのは『風邪』だった。
 目標を達成する前にうっかり引いてしまったそれは治るどころか、最近の無理がたたって悪化の一途を辿っていた。
 いつもの彼なら、コレを口実に堂々と三日は休んでいるところである。
「中尉…わたしはまだ…」
 熱く火照り、渇いた喉では声を出すのも一苦労という状況で。
 それでも諦めきれなくて、ガンガンする頭を押さえながら『書類を』と突きだした手に冷たい何かが当たった。
「とにかく、ひと息いれましょう」
 そう言って渡されたのは水の注がれたコップ。
 ごく自然に、体が求めるままにロイは冷たい水を喉に流し込んでいた。
「………」
 熱い喉を滑り落ちる水が心地よい。
 体じゅうがこんなにも水分を欲していたのかと、改めて知る。
 そんな状態の彼に何かを疑う余裕など、なかった。
「あ…」
 味などないごくふつうの水である。
 ただ、飲み終えた後にハッと気づいたのは彼が相手の性格を知っていたからこそだろう。
『ま、さか…』
 まさか、と呟く。
 力の抜けた手から転がり落ちたコップを、慌てることなく拾い上げる手がかすむ視界の向こうに見えた。
「ゆっくりお休みください。大佐」
 囁きと一緒に冷たい何かが額と頬に触れたような気がしたが、急速に薄れゆく意識にロイは何もわからなくなった。

 *

 コトン。
 コップを机に置いた時に響いた小さな音。
 それに対してちょっと眉をひそめ、ホークアイは小さく息をついた。
「本当に…あなたは時々、子供みたいなんですから…」
 深い眠りに落ちた男の額に手を伸ばす。
 何度確認してみても、その熱の高さは容易に知れた。
 汗が滲み、張りついた前髪を掻き上げると、見慣れたはずの顔がいつもより少しだけ年若く見える。
「困った人」
 たかがチョコレート一つのために…とは思っていても、言えない言葉。
 それを言ってしまうとなにやら相手を更に傷つけてしまいそうだったから、言わないでおいた。
 たぶんそれは正解だったのだろう。
 しかし、その決定打となる一言が使えなかったせいで『約束』を途中でやめさせることができなかったのは、彼女にとって大きな失態だった。
 ため息に後悔の念が混じる。
 とはいえ、いつまでもこのままにしておくわけにもいかない。
 ホークアイは執務室の扉へ向かうと、その扉越しに声をかけた。
「ハボック少尉。手伝ってもらえるかしら」
 音を立てずに開かれた扉の向こうから覗いた顔が、待ちくたびれたと言わんばかりの表情で「やれやれ」と紫煙を燻らせた。
「もういいんです?」
「ええ。本当に限界ギリギリだったみたい。あっさり眠ってくれて助かったわ」
「爆睡ッスね…」
 意識のかけらもなく机に突っ伏している相手を見下ろし、感心しているのか呆れているのか判別できない声で少尉は呟く。
「医務室のベッドに運んでもらえるかしら。ここまでひどいと自宅に送るより、医務室で看護を受けた方がいいと思うから」
「了解」
 くわえた煙草の火で相手を怪我させないように気をつけながら、ハボックはロイに肩を貸して椅子から立ち上がらせた。
 全身の力が抜けた体はかなり重いのか、引きずるような格好を見かねてホークアイも反対側からロイの体を支える。
「すいません、中尉」
「ん…重いわね。でも、頑張って鍛えたら私一人でも支えられるようになるかしら…」
 冗談口調のそこにちらりと混じる本気。
 それに気づいたように、
「やめてくださいよ、中尉。筋肉マッチョな中尉なんて俺、見たくないんで」
 嫌そうに顔をしかめたハボックに彼女は「そう?残念ね」と笑った。
 銃だけでなく、肉体的にももっと鍛えればロイの役に立てそうだと思ったのだが。…そういえば、確かいつだったかロイにも、
「君は今のままで充分、無敵だ」
 とか言って反対されたのを思い出す。
『本当に無敵、だったらいいのに…』
 そう願ってしまうのは、どうしても守りたい人ができたから。
 でも、そんな叶うはずのない愚かな願いにはふと苦笑が漏れてしまう。
 彼女はその余韻を振り払うように顔を上げ、「ところで」とロイの陰で見えないハボックへと声をかけた。
「ところで、少尉」
「ハイ?」
「あなたにお願いしておかなければならないことがあるの」
「…なんです?」
 言葉と一緒に吐き出された煙が、まるでカタチを得たため息のように見える。
「私、明日は中央に行かなくてはならないので、みんなで大佐のお守りをしていてほしいのよ」
「なんッ!ちょ…」
 カツン、と靴音を立てて、少尉が立ち止まる。
 焦った気配が見事に伝わってきたが、彼女は気づかぬフリで言葉を続けた。
「ここのところ大佐から目が離せない状況だったせいで、中央で処理しないといけない用事がたまっているのよ。これだけ弱っていれば、大佐もおとなしくしているでしょうから…」
「待ってくださいって!この状況で中尉がいなかったら、八つ当たりに俺たち黒コゲっすよ!?」
 さすがに切羽詰まった声だった。
 2月14日にチョコをもらえなかったばかりか、薬で眠らされて置いてきぼりとなれば、それもまったくあり得ないコト…ではない。
 それだけに少尉の訴えは切実だ。
「仕方ないわね」
 ふうっとため息。
「それじゃあ…」
 安堵の息を吐きかけたハボックの方へと、ホークアイは片手を伸ばして小瓶を差し出した。
「強力な眠り薬を置いていくから。上手く大佐に飲ませて…」
「中尉〜ッ!そんなの俺たちには不可能ですって」
「眠ってるうちに、追加を飲ませればいいじゃない」
「どーやってですかッ」
 小瓶の中の液体が小さく細波立った。
「どうやってって……口移し、とか?」
「−−−−−−−ッ!!」
「今回は特別許可、ということで」
「中尉〜」
 恨みのこもった低い声が響く。
 これはマズイと、激しい反論がくる前に彼女は支えていた大佐の腕の下から素早く抜け出した。
 急に男一人分の全体重を支えることになった少尉がわずかによろめく。
 その隙に逃げ出す。
「それじゃあ、私、急ぐので」
 後はよろしくね。
 残す言葉には靴音が重なっていた。
 そんな風にまさに脱兎の如く逃げ出した彼女が、この選択を後悔するのは中央の軍法会議所でのことになる。



「おー、来たか」
「ご無沙汰してます。ヒューズ中佐」
「ああ。積もる話は山とあるんだが、君宛てに急ぎの伝言を受けていてな」
「伝言、ですか」
「ハボック少尉からだ。やっこさん、超絶不機嫌なまま、行方をくらましたとさ」
「…………」
「司令部を出たとこまでは目撃者がいたらしい。が、俺も試しに自分んちかと思って電話したが誰も出ないときた」
「そうですか…」
「そうなんだな。あ、それと…」
「?」
「中尉、君の家の留守番電話は面白いな」
「…?中佐、私の家には留守番電話な、んて………」
「どうかしたのか?顔色が悪いぞ、中尉」
「申し訳ありませんが、私はこれで失礼させてもらいます」
「お、こらこら中尉。帰るのはいいが、その前に忘れてるコトがあるだろ」
「え?は…?」
「チョコレート」
 そうしてヒューズ中佐の手には一つの小箱が残された。
 白地に音符模様の包装紙には、中央にしかない製菓店の名前が印刷されていた。
「ま、チョコと仕事とどっちが『ついで』かなんて聞くだけ野暮なこったな」
 ついでに言うなら、この店のチョコレートを好きなのが『誰』か?なんてことも。
 野暮で無駄な問いにちがいないと、彼は笑った。


 *

 さて、血相を変えたホークアイ中尉が東方行きの列車に飛び乗った頃。
 東方司令部内で行方をくらました男はといえば、あたたかなベッドに身を沈め、安らかな寝息を立てていた。
 必要最低限の家具しかない部屋のテーブルの上には乾パンや缶詰、インスタントスープといった非常食が山と置かれていた。
 よくよく見れば、ゴミ箱にはそれらの空き袋しかなく、部屋の主が最近、ひどく不健康な食生活を送っていたことを伺わせる。
 そして、流し台に放置されていたのは煤けた鍋に、黒く焦げ付いたボウルとゴムべらetc..
 チョコを作るための材料。
「中尉…」
 うーんと寝返りを打ちながらも、ベッドの中の彼が目覚める気配はない。
 それはあと数時間の…。

END




〜バレンタインデイ〜
結局、二人が恋人同士のお話になりました。その方が面白そうだったので。実は一度もチョコをもらったことがなかった大佐…ってのが情けなくて素敵☆
甘さがどうのというよりギャグに近いですね。

最初はヒューズ中佐が出ばっていたのですが、少尉で書き直しました。この方が成り行きとしてはスッキリ。(ただし内容的にはばらついたような気もしますが)
入れそびれたエピソードとしては、中尉がチョコ作りに失敗したのは睡眠不足のため!という点でして。どうしても最後まで起きていられない彼女は、火事寸前までは頑張った末、諦めたのでした(^_^;)。
んで、この後の二人は甘々ですねっ!もう砂吐きまくるくらいに甘いでしょう、うん。