カタカタとキーボードを打つ音が決して乱れることのない単調なリズムを刻む。
 それは彼にとって、ずっと聞いていても心地さすら感じる響きだった。特に仕事が順調にはかどっていることを教えてくれる音でもあったから、なおさらだったかもしれない。
 そして、彼は最後のキーを押した。
「やれやれ。これで一段落つきました」
 小さく吐息をついて、端末の小さなボタンを押す。すると彼がつい先ほどまで手がけていた仕事の情報を収めたディスクが三枚、そこに現れた。
「宛先のインプットも間違いありませんね」
 ならば後はメールで依頼主たちに送り届けるだけだ。
 ごく事務的で簡単な処置…そう、メールマンを呼び出そうとして彼は動きを止めた。思わず、というように顎に指を当てて考えるように沈黙する。
「考えていても仕方ないのでしょうが…」
 小さな呟きと一緒にこぼれたのはため息だったが、彼はそのままメールマンを呼び出すキーを押した。
 瞬間、狙いすましたかのように彼の研究室のドアが開いた!
 そして飛び込んできたのは深い翠色の髪をした女性。しかし、その容姿の美しさにも、また彼女が厳重なパスワードを解いて侵入してきたというコトにも彼はなんの感銘も受けなかった。
 ただただ眉間にシワを寄せて、
「またですか」
 心底、嫌そうな声でそう呟く。
 しかし、その声が聞こえたはずの相手はまったく気にした様子もなく、ちょっと苦笑しただけだった。乱れた髪を無造作に手で払いながら、ヒールの音も高らかに半ば駆け足で部屋を突っ切る。
「ちゃんと借りは返すわ。ウィルス」
 長いスカートの裾を翻し、スリットから見事な曲線美が露わになるのもかまわずに彼女は隣のデータ室へと駆け込んだ。
 そんな彼女とほんのわずかの差で三体のメールマンが現れる。ウィルスは相変わらず眉間に深いシワを刻んだまま、三人分のメールをそれぞれに託した。
 そして、メールマンが姿を消すと同時にまた飛び込んできた新たな訪問者。
 それが誰なのか、見ずとも彼にはわかっていた。訪問のチャイムも鳴らさぬばかりか、逆に入口をぶち壊しかねない勢いでやってきたのは−−−
「あなたという人は……もう少し落ち着いた生き方はできないんですか?コントロル」
 赤と白とがよく似合う爽やか熱血漢タイプの青年。
 しかし、息せき切らせたその姿に向けるウィルスの目はかぎりなく冷ややかだった。

 *

「助かったわ。ありがとう、ウィルス」
 慌ただしい気配の青年が消え、研究室に再び静寂が戻ってきたところでデータ室に隠れていた美女がそんな風に礼を言いながら現れた。
 その艶やかな微笑みを得るためなら何を犠牲にしてもかまわないという者もいるだろう。が、残念ながら何とも感じないのがウィルスだった。彼にとって特に重要なのは−−−いや、彼が相手に必要とするデータは使用するに足る能力にすぎない。
 彼は相手をちらりと一瞥しただけで、再び端末へと体を向けた。そのまま新しいディスクを入れると、さっそくキーを打ち始める。
「お礼なんて結構ですよ。アンティ」
 そう言い放つ声は冷たく、容赦がない。
「いい加減、私の研究室を逃走経路に使うのをやめていただけませんか。あなたがたにかまっている時間が実に惜しいのですよ」
「あら、でもちゃんとロス分はお手伝いで返しているはずよ」
 飄々と言いながら、アンティはウィルスの椅子の横に立った。そして、ウィルスが開いていたデータを眺めながらキーボードに指を走らせる。そうしてアンティがデータに次々とチェックを入れてゆくのを見ながらも、ウィルスは変わるコトのない淡々とした口調で言葉を続けた。
「確かにあなたの未来予測プログラムにはこうしたメリットもありますが…」
「あるけれど?何かしら」
「静かな環境で仕事ができるに越したことはありませんから」
 ちょうどアンティが最後までチェックし終えて指を離したのと入れ替わりに、ウィルスが指を動かし始める。
 しかし、アンティはそんな彼の無遠慮な言葉や態度をまったく気にした様子もなく、くすっと小さく笑って、データの流れ飛ぶ画面を見つめていた。
「だって、仕方ないのよ。ここほど頻繁に外部との通信回路を繋げてるところってないんですもの」
「あなたにとったら自分の逃げ道を誤魔化すのにこれほど都合がいい場所はない、と言いたいわけですか」
 アンティが彼の研究室に飛び込んでくるタイミングはいつも決まっていた。それはちょうど彼がメールを投げる寸前だ。
 そうすると、たとえば今回のように三通投げたメールの辿る道筋があたかも彼女の逃げた道であるかのように、後から来た追跡者に思いこませることができるのだ。追跡者が−−−そう、コントロルが三本の道を確かめて戻ってくるには相応の時間がかかることだろう。
 そういう誤魔化しをするには彼の研究室がうってつけだとアンティは悪びれもせず言う。
「あなたもそう思うでしょう?ウィルス」
「……………」
 ウィルスは黙ったまま、キーを一つ押して、端末から新しく更新されたディスクを一枚取り出した。
「あなたのおかげで片づいたコレを今から送りますが、一緒に出ますか?」
 メールマンを呼び出すキーに指をかけてそう問う。
 そんなウィルスの態度が面白いとでもいうようにクスクス笑いながら、アンティは「そうするわ」と明るい声で応えた。出口へと向かう足取りはどこか楽しげですらある。
「うまくいけばいい隠れ蓑になるわね」
 また新たに出来る二つの道筋。一本はウィルスの仕事用、そしてもう一本はアンティの逃走路。
 アンティのような能力があるならまだしも、一つ一つ辿って調べるのは大変にちがいない。果たして彼女がそこまでする意味があるのか、ウィルスにはわからなかった。
 メールマンの到着を告げるチャイム音が響くのを聞きながら、彼は呆れ混じりに言う。
「同じコレクターでしょう。なのに苦手なのですか?」
「苦手じゃないわ」
 自分で聞いておきながら、『当然ですね』とウィルスは思う。
 仲間となるべくして作られたプログラムが仲違いするなど制作者が望むはずがないのだから。
「じゃあ、なぜ逃げるのですか」
「だって嫌いなの」
 それは意外すぎる答えだった。…いや、実際の状況からすれば相応の表現かもしれないが、あり得ないだろう答えだったのだ。
 思わず目を向けた彼が見たのはメールマンと入れ違いに外へ出てゆくしなやかな後ろ姿。ほんの一瞬、呼び止めようかと迷ったものの結局、彼はただメールマンにディスクを渡しただけだった。
「嫌い、ですか。不思議なコトをいう人ですね」
『しかし、こんなことはわたしにはまったくもって関わりのないことです』 
 わたしにとって大切なのは目の前の仕事をこなすコトなのですから。
 そうして彼は素早く思考を切り替えながら、また新たなデータを端末に放り込んだ。