冷静で公正な判断を下すために『感情』とはあってはならない。
 『感情』は思考を鈍らせ、構築すべき理論の先を見つめる目を霞ませる最悪の要素にすぎないからだ。
 これまでそう信じてきたように、それはこれからも変わることのない事実だと彼は確信していた。
 だからこそ、存在意義の大半をコムネットの問題処理及び理論構築に捧げる彼は自然、『感情』とは無縁の生き方を選んだ。…ハズだった。
「おっ、菓子なんてあるじゃないか。少しもらっていいか?」
 奥の小部屋から聞こえてきた無遠慮な声に、見つめていたモニター画面の文字がブレた。いや、正しくは彼の方が目眩を起こしたのだ。
『かなり堪えましたよ。これは』
 組み立て途中だった理論がぽっかり空白を生み出すほどの負荷に彼はため息を噛み殺す。
 声の主はコレクターの一人、コントロルだった。何度追い返しても懲りずにやってきて、来たかと思えば何もせずにすぐ帰ったり、ただ無目的にデータ室を覗いていたりで、最近ではアンティを探すよりもそうしているコトの方が多い。
 なかなか理解に苦しむ行動の極めつけに、扉を開けて入って来てから「なんで俺はここにいるんだ?」と首を傾げられた日には彼も憤死しそうになった。
「なあ、食っちまうぞ。ウィルス」
 もう一度、確認するような声が聞こえた。ウィルスは不快感に眉をはね上げながら、
「どうぞ。お好きなように」
 と投げやりな声で応じる。
 理解しがたい相手であるだけに”研究者”としての好奇心は刺激されるものの、それをはるかに上回る嫌悪感はどうにも耐えがたい。
 性質の合わない者同士を水と油で例えることもあるが、彼ら二人の相性はまた少し違うといえたかもしれない。つまり、ウィルスをたくさんの地雷を抱えた地雷原に例えると、コントロルはそれを見事に踏み当てる名人だった。
 一歩踏み出すごとに繰り返される大爆発。
 その原因が故意ではなく無思慮、無分別、無遠慮という類だからますます始末に負えない。
「これ、手作りだろ?自分で作ったのか?」
 すぐ横から聞こえた声と一緒に、目の前に突き出された銀色の缶。いつの間に、というのはコントロル相手には無意味な問いだった。
 可愛い丸文字で『くっきー』と書かれたラベルが貼ってある缶の口からはハートや花の形をした焼き菓子が顔を覗かせていた。
 その時、コントロルが踏んだ地雷は三つ。
 見たくもない物とそれに付随する不愉快な記憶、加えて−−−−愚かな言葉。
「笑えない冗談ですね」
 不快感や怒りに『悪意』までもが触発される。
 それは”嫌悪感”などという言葉では誤魔化しきれないものだった。
 残酷に、傷つけてやりたいという衝動はまるで敵対していた時そのままだと、彼は冷静な部分で思う。
『これはプログラムソフトとして許される範疇なのですかね』
「お、おい、ウィルス…?」
 唇の端を上げただけの、悪魔のような微笑みにコントロルはとっさに体をのけ反らせた。危険を察知するくらいの神経は持ち合わせていたらしい。
 しかし、逃げはしなかった。
 緊張に少しばかり顔を強ばらせてはいたが、まっすぐにウィルスを見たまま、動かない。
 その瞳が何を見つめ、本当は何を求めているのか。
 手元に揃ったデータから、ウィルスには既に見当がついていた。
 だからといって、素直に相手の求める答えを教えてやる気にはなれない。
 この『感情的』であるというコトがどういう作用をもたらすのかと、そんなことをちらりと考えながら、彼は言葉を選び取る。
 それは毒々しくも晴れ晴れしい気持ちのままに。
「あなたは本当にアンティのことがお好きなんですか?」
 と。

 *

 戸惑うように瞳の奥で交錯する想い。
 ウィルスが冷たく見据える目の前で、コントロルはいつになく慎重に、時間をかけて口を開いた。
「おまえにはそう思えないと言いたいのか?ウィルス」
 青ざめ、強ばった顔とは裏腹に、激しい感情の波を無理矢理を押し込めているような瞳。
 それに気づいていながら、故意に無視してウィルスは意地の悪い笑みを返す。
「あなたがアンティを好きで、だから追いかけているらしいというのは感じますよ。しかし、逆もまた考えられなくはないでしょう?」
 嫌いだから、嫌がらせに追いかける。
 そういう可能性もあるでしょう、と揶揄してみせるウィルスにコントロルは眉根を寄せた。
「で、おまえは俺がアンティを好きではないと考えるんだな?」
 非難するというよりも、確認を取るような口調にウィルスは薄く笑う。
「おや、好きではないのですか」
「………」
 大きく肩を落としたコントロルが大げさなため息をもらした。そのまま床面から椅子を取り出すと、彼は脱力したように座り込んだ。
「おまえと話していると疲れる」
「私もですよ」
「…どうせ俺は短絡的でバカだよ」
「ほう、よく御存知ですね。自分自身のコトを理解するのは進化への第一歩です」
 『短絡的でバカ』…それは事あるごとにウィルスがコントロルに与えた批評であった。そうとわかっていて、しれっとした顔で応える相手にコントロルは小さく呻いた。
「性格が悪いぞ」
「では、アンティも性格が悪いのですか」
 一瞬、表情を凍りつかせたコントロルにウィルスは冷たい視線を投げかける。
「あなたの行動の本意が見抜けぬほど愚かではないつもりですよ、コントロル」
「…………そうだろうな」
 コントロルは苦笑し、いくぶん落ち着きを取り戻した様子で顔を上げた。
「それで?おまえはどう思う?」
「どう、とは?」
 淡々とした切り返しにコントロルは口の端を歪める。データ分析に長けたウィルスがコントロルの思惑に気づいているのは、今までの会話からも十分わかることだ。
 そう、ウィルスはすべてわかっていながらわざとこういう聞き方をした。
 相手の腹を探り合うようなアンティとの会話とはまったく違う。彼はコントロルに対する不快感を……『悪意』を隠さず形にして表したのだ。
 少しためらうように間を置き、コントロルは問う。
「俺は異常だと思うか?」
 なにげない口調とは裏腹に、真剣な光を宿した目。
 それでも、ウィルスは遠慮などしなかった。
「私にとっては”異常”です」
 キッパリと断言し、相手のリアクションを待たずに言葉を続ける。
「コムネット世界に関わる私の仕事を邪魔するあなたはプログラムソフトとして”異常”以外の何ものでもありませんよ」
 まるで切りつけるような鋭い視線に、コントロルはわざとらしく胸を押さえる仕草をした。
「おまえ…俺を苛めてそんなに楽しいのか?」
「心外ですね。こんなものは苛めにも入らないでしょう」
「そんっなに俺が嫌いか」
 半ば諦めたように苦笑するコントロルに、ウィルスはハッキリ不愉快そうに眉をしかめてみせた。
 何を今さら、と言外に告げる。
「嫌いですよ。そういう無駄で無意味な問いをするあなたがね」
「そんなに俺は無駄が多いか?」
「多いどころの話ではないでしょう。そもそも、私と彼女との類似点から答えを引きだそうというのが無駄の極みです。そんな遠回しな行為は時間と労力を無駄に消費するだけで無意味だとは思わなかったのですか」
「…………」
「そんなコトもわからないあなたは真性のバカです」
 吐き捨てるように言うウィルスに、ひどく困った顔でコントロルは呟いた。
「…そこまで言わなくてもいいだろうが」
「ここまで言ってもまだ言い足りないぐらいですよ」
「俺だってな、真面目にいろいろ考えたんだぞっ」
「真面目に?…それがそもそもの間違いなのではありませんか?」
 慣れないコトをするから失敗するんですよ。
 やれやれと頭を振り、ウィルスは椅子から立ち上がるとまっすぐコントロルのそばまで歩み寄った。
 わずかに身構える相手にかまわず、手元から銀色の缶をごく自然な動作で引き抜く。
「…ウィルス?」
「ひとつだけはっきりさせておきたいのですが…」
 眉をしかめたまま、缶の中に残っているクッキーを見下ろし、ウィルスは言う。
「私はあなたが嫌いだと言いましたが、それは私個人の価値基準によるものです。そのため、あなたの異常的部位も、私以外の者にとっては”正常範囲”なのかもしれませんし、また感情を持つプログラムソフトに従来の常識が通用するか疑問も残ります」
 つまるところ、ハッキリ言えるコトは何もないのだと告げるウィルスにコントロルは目を丸くした。
「そいつは…慰めてくれてるのか?」
 おそるおそるそんな言葉を口にして、即座に殴り飛ばされる。
 忌々しげな舌打ちがコントロルの耳にも届いた。
「これ以上、あなたとは付き合いきれません」
 言うと同時にウィルスは持っていた缶を近くのゴミ箱に投げ入れる。いつになく乱暴な扱いには八つ当たりも入っていたかもしれない。
「おい、まだ残って…」
「私には不要な物です。今のあなたと同じように」
 情け容赦ない言い方にコントロルは顔をしかめた。
 何か言おうとしかけて、諦めるように口を閉ざした彼は『了解』というように片手を上げて、椅子を立った。
 そして、彼は立ち去り際に「なあ、ウィルス」と声をかけた。不機嫌な顔つきのまま、コントロルの背中を睨みつけていたウィルスは返事の代わりに片方の眉を上げて応える。 
「俺がアンティのコトを特別に感じているのは事実だ。見ているだけで”幸せ”な気分になる。それは他の仲間たちにはない特別なものだ」
 それって変か?
 その時、コントロルの口元に浮かんだ笑みはどう表現すべきモノだろうかとウィルスは思った。
 嬉しそうとか、楽しそう、という言葉では足りない。喜びにあふれているようで、ほんのわずかに影が混じった微笑み。
 しかし、それは到底、自分には持ち得ないモノだということだけはウィルスもわかった。
 だから、答える。
「あなたの言う感情は私には理解できないものです」
 と。
「…そいつは残念だな」
 小さな音を立てて扉が閉まった後も、ウィルスはしばらく動かなかった。
 自分自身が言った言葉を反芻して、苦虫を噛みつぶしたような顔つきになる。
『理解できないのではなく、理解したくないというのが本音、ですね』
 それと似た言葉をつい最近、他人に言ったばかりだと気づいて。
「本当にあなたは嫌な人ですよ。コントロル」
 自嘲の笑みと共に彼はそう呟いた。