右か。
 左か。
 それとも、真ん中の道を選ぶべきか。
 目の前に分かれ道があった時、いつも考えるのはその選択によって得るモノと失うモノの重さだった。
 慎重に。
 冷静に。
 時に、冷徹に。
 より重い方を選び取る。
 そして、そうではないものは必然的に切り捨ててきた。
 後になって何度考えてみてもそれは『正しい選択』であったというのに。

 それでも、時々、後悔してしまうのはなぜだろうか?

 *

「バレリア、大丈夫か?」
 背後から響いた少年の声を理解するのにほんの少し時間がかかった。
 ああ、自分に向けられた問いなんだと鈍い頭で考えながら口を開きかけ、刹那、首もとに走った痛みに息を詰める。
「…ッ」
 反射的に伸ばした手で握り込むようにして傷口を押さえていた。
 眉間に刻まれたシワは深く、唇からこぼれる吐息が震えるのを隠す余裕もない。
 それでも、苦笑混じりにではあったが、なんとか平静を装えるだけの強さを彼女は備えていた。
「…大丈夫です。少なくとも医務室までは自分の足で歩いて行けます」
 答えながら改めて、視界に映り込む石造りの壁や床に焦点を合わせる。
 見慣れたそこは第二の我が家となりつつある場所。
 同じ志を持つ仲間たちが集う”砦”。
『そうだ。戻ってきた…』
 静かに胸に染みこむような感覚で呟く。
 魔物の巣くう森の中から、自分は生きてこの場所に戻ってこれたのだ。
 バレリアは目眩をこらえるように一度強く目を閉じ、そして、小さく息をついた。
 ほんの数分…いや、ほんの数十秒前まで相手にしていた魔物の姿が脳裏を過ぎる。
 その巨体に似合わぬ素早い動きと鋭いかぎ爪で攻撃を繰り出してきた獣型の魔物。
 強かった。
 それは手強すぎる敵だった。
 仲間の一人が瀕死の状態に陥るほどに。
「ミーナ、大丈夫でしょうか?」
 少し離れた場所から心配そうな少女の声が聞こえる。
「たくさん…血が出てました」
 振り向かずとも、目に涙を浮かべた姿が容易に想像できる声だった。
 少女がすぐ近くにいた仲間を、しかも親しい友達を助けることができなかったコトを悔やみ、悲しんでいるのがバレリアにもよくわかった。
 つい先程、慌ただしく運ばれていった踊り子の少女は担架の中でぴくりとも動かなかった。かなり危険な状態であるのは確かだ。
『励ましの言葉を…』
 と、鈍い思考の片隅で思う。
 しかし、いつもなら考えるまでもなく言えるはずの言葉が喉に絡んだように出てこない。
「処置が早かったから大丈夫だ。あとはリュウカン殿にまかせて、僕たちも怪我の手当を済ませてしまおう。…カスミ、そんなに手を握りしめるんじゃない。血が滲んでる」
 そんな少年の相手を気遣う声。
 彼に任せておけば少女は大丈夫だと勝手に理由をつけて安堵する自分を苦々しく思いながら、バレリアは額に張りついた前髪を掻き上げた。
 頭のてっぺんから爪先まで泥と血に汚れた体は疲労感から鉛のように重く、鏡を覗いて確認しなくても自分の姿のひどさは容易く想像できた。
 額や頬にべったりと張りついた髪。
 あちこち切り裂かれた軍服には赤黒い染みが広がる。
 それは”またたきの鏡”を使って帰還した仲間たちと変わらぬ惨状。
 砦で待機していた者たちが、彼らを見て一瞬、立ちつくしたほどにはひどい有り様らしかった。そう、一応、全員が見かけどおりの重傷者だった。
「バレリアさん?」
 救急箱を片手に駆けつけてきた少女の気遣うような視線に彼女はちょっと笑って返す。
「ああ…本当に、出血はもう止まっているから大丈夫だから」
 とはいえ、左肩の、鎖骨の辺りに走る傷は存在を主張するようにズキンズキンと強い痛みを訴え続けていた。そこから溢れた血で真紅の軍服は胸元まで赤黒く染まり、その傷の深さは誰の目にも明らかにちがいない。
『こんな姿で大丈夫だと言うのはやせ我慢でしかないだろうか?』
 それでも。
 そうとわかっていても、彼女は今、誰の手も借りたくなかった。
 体面やプライドのためではない。
 ただ…。
「本当に平気だから」
 『ヘイキ』という言葉が自分の中で虚ろに響くのを感じながら、そう告げる。
 そうして、自らの言葉を証明するように歩き出した彼女に少女はそれならせめて…と手を差し出した。
「その剣、持つわ」
 血と泥に汚れたままの愛剣。
 触れば少女の手や服も汚れてしまうと躊躇したバレリアに構わず、
「鍛冶屋の人に頼んで手入れしてもらっておくから、バレリアさんはしっかり休んでね」
 汚れた剣を大切そうに抱え、元気良く走って行く後ろ姿。
 固まりかけた魔物の血で強ばっていた手が思いもかけず軽くなったのに気づき、バレリアはわずかに目を細めた。
 砦に戻ってきたことで弛みかけていた緊張感が、剣を手放すことでいっきに薄れゆくのを感じる。傷の痛みが増したように感じるのも気のせいではないだろう。
 足を一歩動かすごとに感じていた痛みの間隔が嫌なくらい短い。
 無意識のまま彼女は空いた手で鎖骨の傷を押さえ、歩く速度を上げていた。
『イタイじゃないか』
 でも、大丈夫。
 傷が痛むのは生きている証だ。
 別に弱音を吐くほどではないだろう?
 胸の内でのそんな自問が聞こえたはずないだろうに、タイミングよく後方からの声。
「おめえ、マジでやせ我慢大王だな」
 呆れ返ったその響きにバレリアはかすかに唇を歪めた。
『本当に…そうだな』
 何かリアクションを返すだけの余力がない彼女は、ただ漠然と、少しの皮肉をまじえてそう思う。
 傷はひどく痛かった。
 でも、自分は生きている。
 仲間の『命』も失わずにすんだ。
 本当に大切なモノは何もなくしてはいない。
 だから。
『これは正しい選択なんだ』
 迷いを振り切るようにまっすぐ前を見つめ、バレリアは歩き続けた。
 そんな彼女は仲間の一人が何かを言おうと口を開きかけ、やめたことにも気づくことはなかった。

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