気づかなければよかった。
 いっそ何も気づかずにいられたなら。
 こんなにイヤな気分になることもなかっただろうに。

『どうしてオレは気づいちまったんだろうな』

 *

「ビクトール?」
 怪訝そうな声に名を呼ばれ、彼はふっと意識を自分の隣に戻した。
「彼女がどうかしたのか?」
 少し声を落とした問いかけは隣を行くフリックのものだった。
 ビクトールやバレリアと同じく魔の森で戦った彼の格好もまた服があちこち破れ、血と泥に汚れたひどいものだった。応急処置として巻かれた腹部の包帯すら滲み出る血で赤い染みを作っている。
 倒れるまではいかなくても、額に汗を浮かべた顔は少し辛そうで。
 他人を気遣っている場合ではないくせに、本当にお人好しなヤツだとビクトールは思う。
「何か気になることでも?」
 気になるコト。
 胸がイヤな感じにどくんと鼓動を打った。
 損傷しているだろう肋骨の辺りが燃えるような熱をもって痛み出す。
「あいつの…」
 あいつの、バレリアの…
 そう言いかけて、言葉が途切れた。
 傷の痛みと熱のせいだろうか?うまく頭の中が働かない。
 何をどう告げるべきなのか、説明すべきなのかわからず、ビクトールは惑うように視線を彷徨わせた。
 誰も、何も気づいていない。
 心も体も強い女剣士のかすかな変化に。
 それとも、いつもと何かが違うと感じるのは自分の気のせいなのか?
「あいつ、なんか変じゃなかったか…?」
「バレリア?いつもあんな感じだろ」
 何をおかしなコトを、というようにフリックは首を捻った。
『いつも、あんな感じ』
 確かにそうだった。
 気丈な彼女は周囲に弱みを見せることを好まない。
 傷の痛みを隠し、誤魔化し、まっすぐに前を向いて歩いてゆく。
 そうだとしても、過ぎた無理はしない人間とわかっているから誰も心配などしない。
 彼女が本当に歩けないくらいひどい状態なら、人手のあるここで素直に担架に乗っていたことだろう。
「ビクトール?」
 黙り込んだビクトールを心配そうに見やっていたフリックが、うっかり床の継ぎ目に爪先を取られてよろける。ほんのわずかな動きだったが、傷に響いたのか、彼はウッと小さく呻いて腹を押さえた。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫ですかっ!?フリックさん」
 砦で待機組だった仲間の一人が、慌てたように走り寄ってきた。
「やっぱり俺が肩貸しますから、早く医務室に行きましょう」
「いや、いいって…」
 青い顔で大丈夫だと言われても納得できる者はいない。
「ダメですよっ!」
「あ、おい…ちょっ」
 弱っているのをこれ幸いとばかりに男3人力づくで担架に押し込められ、連れさらわれてゆくフリック。あっという間の早業だった。
「ビクトールさんも担架で行きませんか?」
 そう聞かれ、ビクトールは苦笑しながら首を振った。
「オレはそんなに怪我ひどくねえから、いいよ」
 嘘だった。外から見える傷は少ない代わりに、中がけっこうやられているのをビクトールは知っていた。
 それでも、心配そうに見てくる仲間たちにひらひらと手を振り、いつもの足取りで歩いてみせる。担架に乗る気もなければ、人の肩を借りる気もなかった。
『んな、みっともねえコトできるかよ』
 あいつは一人で自分の足で歩いて行ったじゃねえか。
『あいつは…』
 そう思いかけ、彼は細い息を吐き出した。
 気のせい、だったのかもしれない。
 自分の単なる思い違いなのかもしれない。
 赤い軍服の気丈な女はいつもどおり平然とした様子で歩いて行った。
 ただ。
 ひとつだけ気にかかるのは。
 ”またたきの鏡”で砦に戻ろうとした瞬間、一度だけ森を振り返った彼女の瞳。
 そこを駆け抜けた悲痛な光をビクトールは忘れられなかった。
 まばたき一つで消え失せたそれは、敵への感傷か、それとも未踏のままに終わった探索に対するものだったのか?
『いや…』
 そんなモノではないだろう。
 あの場面で、人の命をなにより尊ぶ彼女の意識を奪えるのはそんなモノではありえない。
 ならば、なにが?
 ビクトールは無骨な手でがしがしと頭を掻きながら、眉をしかめた。
 なんとなくではあったが、思い当たるコトがひとつだけあった。
『まさか…』
 まさか、と呟き、頭を振る。
 もし、なにかがあったとしても、もう終わったコトにちがいなかった。
 自分も、バレリアも既にこの場所に戻って来ている。
 そうすることを彼女は撰んだのだ。
「くそっ」
 舌打ちし、彼は乱暴に床を蹴りつけるようにして進んだ。
 止まることのない胸の奥のざわめきに、気分がひどく悪かった。

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