| 両腕に抱えた体の重み。 肌に伝わるあたたかな体温。 それらはそこにある命がまだ生きている証だった。 それでも、ふだんより格段に弱々しい脈拍と呼吸の様子に彼は胸騒ぎを覚える。 まるで糸の切れた人形のようにぐったりした体と。 血の気が失せて青ざめた顔。 「大丈夫か?バレリア」 廊下を走りながら、そう声をかけても彼女はなんの反応も見せなかった。 死体など見慣れた彼にとって、それがただ意識を失っているだけとわかっていても。 『衰弱死』 そんな忌々しい言葉がすぐ耳元で聞こえた気がして、頭を振る。 「ふっざけんなよっ!!」 『誰が死なせるかっ』 彼の頭の中にあるのはただそれ一点のみだった。 そこには冷静さなど、まったくといっていいほど欠けていたかもしれない。 だから、塞がった両腕のために蹴り開けるハメになった扉が蝶番ごと吹き飛んでも。 その扉がぶつかった壁の方から何かがつぶれるような変な声がしても。 彼はいつもと同じようにちょっと乱暴に扉を開けた程度の気持ちで…というより、そんなコト自体、気づいてもいなかった。 素早く目的の人物を目に捉え、ずかずかと大股で歩み寄る。 「急患だ!診てやってくれっ」 唾を飛ばしてそう告げる彼の顔を、老人は心底呆れたようにしげしげと見つめて大きなため息をついた。 「ここをどこだと思っておる」 よもや医務室で怪我人を作る馬鹿がおるとはな。 世も末か。 「リュウカンっ!呑気なコト言ってんじゃねえっ」 人間一人の生死がかかわってんだぞ!? 「おぬしは何事も大げさじゃからな」 そう言ってリュウカンはバレリアの脈をはかり、また呼吸を確かめるように耳を近づけ、そして少し考えるように顎を撫でた。 「なあ、どうだ…?」 「うむ…それはな」 老人のやけに深刻そうな顔つきにつられ、思わず息を潜めるビクトール。その心拍数がいっきに跳ね上がったのは言うまでもない。 が、一瞬、彼の目の前が真っ暗になったのは頭を木の杖で殴られたせいだ。 「−−−−っ!?」 「愚か者っ。バレリアはただ眠っておるだけではないか」 どうせまた無理をさせすぎたのであろうがっ。 「またってのはなんだよっ!?オレのせいじゃねえっ」 『オレは止めたほうだってんだっ』 「右手首が紫色に腫れておる。剣の稽古とはいえ、ほどほどにせんか」 「だからっ!ちがうっつってんだろーがっ!!」 「湿布ならそこの棚にあるからもってゆけ」 「話を聞きやがれっ!このクソジジイ」 早くも背中を向けた老人の前に回り込み、ビクトールは事のあらましをかいつまんで説明する。 奇妙な幽霊憑きの人形に出くわして。 その幽霊がバレリアに乗りうつったのだと。 「だからだなっ、ヤツは栄養とって休ませろっつったが信じていいのかわかんねえし。どうしたらこいつの目が覚めるのかわかんねえんだよ…」 まくしたてるような早口は、やがて途方に暮れたような呟きになる。 黙って話を聞いていたリュウカンはそんなビクトールの肩を叩き、医者らしく落ち着き払った声で応じる。 「大丈夫であろう。まあ、確かに自分に取り憑いた幽霊を追い払うとなればかなりの精神力を消耗したと考えられるからな」 とにかく今はゆっくり眠らせてやることじゃ。 長年の経験の裏付け故か、彼の声は聞く者に不思議な安堵感を与えるものだった。 それでも不安を拭いきれずにビクトールは念を押して確かめる。 「本当に大丈夫だろうな?」 「おそらく、大丈夫じゃ」 すまし顔で訂正するリュウカンに、 「おそらく、じゃあ困るんだよっ!!」 ビクトールは今にも掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。 これで両腕が塞がっていなければ、本当に相手の襟首を掴んでいただろう。 「そうは言うが、こういう症例を実際に目にするのはさすがに初めてでな。しばらく様子をみるしかあるまい」 「んな悠長なコト言ってねえで、もっとちゃんと診察しろっ!!」 怒鳴るビクトールの言葉に、その時、老人は意味深な目をして彼を見上げた。 その口元には、ビクトールも思わず身構えるほど意地の悪い笑み。 「そうか。もっとちゃんと診察してよいのだな」 たっぷりじっくりこの者の体を調べれば、何かわかるやもしれぬしな。 「−−−−ッ!て、てめっ…」 「時間がかかるであろうから、おぬしは部屋で待っておるがよい」 ビクトールはいっきに青ざめ、次の瞬間には真っ赤になっていた。 「ふ、ふざけんなっ!!このエロジジイがっ」 そう怒鳴るやバレリアを抱えて医務室を飛び出した彼の耳に老人の呟きは届かない。 「やれやれ、本当に困った男よ」 あれではバレリアもさぞかし苦労しておるにちがいない。 そして、彼はため息をつきながら扉と壁の隙間に挟まる怪我人を引っ張り出した。 NEXT |