悪いことをしたらバチが当たるというけれど。
「こいつがそのバチってヤツなんだろうか…」
 階段を落ちたせいで痛む腰をさすりながら彼は大きくため息をついた。
 その胸の内はまるで鉛を抱えているかのように重苦しかった。
『まあ、こういうこともあるわな…』
 自分以外の誰かを好きだと綴ってある、恋人の日記帳。
 当人の性格からして現在進行形でないコトは確かだろう。ということは、過去に好きだった男への想いがそこには込められていたわけで。
 その事実に彼はショックを受けたのだ。
 自分とて別の誰かを特別に想った時があるコトを思えば、非難するようなことでもなく。
 今の彼女は間違いなく自分を特別好きでいてくれているわけで。
 だから気にすることはないと思いながらも、気にしてしまう自分に彼は混乱する。
 ここにもしフリックがいたなら、
『バカかおまえは』
 と呆れながらもその勘違いを訂正してくれただろうが、あいにく今の彼は一人だった。受けたショックの大きさに彼は事の不自然さにも気づかない。
 そもそも過去の日記帳なんて物を今さらになって毎日持ち歩く必要があるだろうか?
 しかし、開いた瞬間からそれを”バレリアの日記帳”と思い込んでしまった彼に、そんなコトを考えろという方が無理な注文なのかもしれない。
「見るんじゃなかった…」
 破鐘が鳴っているかのように頭の中がくらくらする。
 自分の事が書いてあるのだと浮かれた自分が本当にバカみたいで。
 後悔と恥ずかしさで、発作的に床を転げ回ってのたうち回りたいような衝動にかられる。
 そして、あてどなく廊下をさまよい歩いていた彼は背後から響いてきた声にびくっと飛び上がった。
「ビクトールっ!!」
『バ、バレリア!?』
 どんな顔をすればいいのかわからず、靴音も高く歩み寄ってくる相手の気配を感じた瞬間、彼は逃げの体勢に入っていた。
「あっ…逃げるな!」
 逃げ足には自信のあるビクトールだが、バレリアもまた機敏な動きを得意としている相手だった。それにこうなることがわかっていたのかもしれない。
 背後に迫った影がふっと小さくなったかと思うと、キレのよいスライディングがビクトールの足にきまった。
「うおっ」
「………往生際が悪いぞ。ビクトール」
 床に尻もちをついた彼を見下ろすバレリアは怒っていた。
「ちゃんと謝るんだ」
 腰に手を当てて仁王立ちになった彼女は有無を言わさぬ口調でそう言う。
 しかし、その威圧的な言い方に胸の中がもやもやしていたビクトールはムカッとする。
『なんで今さら、昔の男のことを書いた日記帳なんてもんを持ち歩いたりしやがるんだよ!?』
「てめえの方こそ他に言うコトねえのかよ?」
 睨み上げるとバレリアは腰から手を離し、小さな吐息をこぼした。
「すまない」
 その素直な謝罪が、ビクトールには浮気…を認める告白のように聞こえて思わず息を呑んだ。
「…謝るってことは悪かったって思ってんのかよ」
「ああ。ちょっとした嘘のつもりが事を悪化させたと思っている」
『ちょっとした嘘…?』
 嘘ってなにが、だ?
 オレのコトを好きだって事か!?
 混乱のあまり、彼の思考は勝手にどんどん悪い方へと悪い方へと転がり落ちていった。だから。
「兵法書だと嘘をついて悪かったな」
 そんな、すでに忘れていたささいな事を持ち出されて彼の目は点になる。
「………はあ?」
「ん?その事をおまえは怒ってるんじゃないのか?」
 怪訝そうに眉根を寄せて、バレリア。
「そ、そうじゃなくて、だな。アレはおめえの日記帳だろうがっ!?」
 内容についての言い訳はしないのかと戸惑うビクトールに、バレリアは大きく肩を落とした。
「なぜアレが私の、というコトになるんだ?ビクトール」
「おっ、おめえのじゃねえのか?」
「違う」
 中を見てわからなかったのか?
「そ、それははなっからおめえのだと思ってたんで…」
 よくよく冷静に考えてみれば不自然なコトもあるような気はするのだが、そこまで考える余裕は今のビクトールもまだなかった。
 そんな彼の様子を見て、仕方のないヤツだとばかりにバレリアは苦笑する。
「とにかく、説明は歩きながらしてやるから」
 謝りに行くぞ。
「………あ?」
「日記帳の本当の持ち主に、だ」
 おまえ、人の物を勝手に破いただろ。
「本当におめえのじゃなかったのか?」
「何度も言わせるな」
「ちがったのか…」
 安堵で全身から力が抜けたビクトールはそのまま床にごろりと寝転がった。
『よかった…』
 そんな思いをしみじみ噛みしめている彼の横で、カツンと靴音が響く。
「こんなところで寝るな!風で飛んでしまったページはまだ回収中なんだからな」
「へえ…そりゃ大変そうだ」
「他人事じゃないだろう。おまえも手伝うんだ」
 さっさと立てと差し出された手をつかみながら、ビクトールはいつもどおり平然としているバレリアにふと質問してみる。
「なあ、おめえはああいうの書かねえのか?」
「書かない」
「なんで?」
「なんでって…別に書く必要などないだろ」
 早く行くぞ。
 ふいと横を向いて踵を返すバレリア。その首がうっすら赤いコトにビクトールは目ざとく気づいた。
 だから、言ってみる。
「書けよ」
「書かない」
「書けって」
「しつこいぞ。ビクトール」
 そして、バレリアが足を止めて振り返った隙を逃さず、彼は唇に軽く触れるだけのキスをする。
「…っ」
 驚く瞳をからかい混じりに覗き込みながら、
「嘘をついたの許すからよ」
 おめえはバカなオレを許せよな。
 ビクトールはほんの少しの不安を隠してそう告げる。
「ああ。そうしよう」
 風のようなキスを承諾の印にして、バレリアは小さく笑った。
 その軍服のポケットには小さな手帳が一つ。
 スケジュール帳と称されたそれに何が記されているかは彼女だけが知る秘密。
 そして、今日もまたそこに新たな文字が記される。


 END ・ +α