| ノーラベルのワインボトル。 コルク栓の刻印がその産地と精製年度だけを教えるそれは誰もが簡単に手にすることのできる安酒の一つだった。それでも帝国領の辺境に位置する村が細々と作っているだけ、となると都市部ではなかなか手に入らない。 だから、独特な形をしたそのボトルを見つけると買うのはもはや彼女の習慣であった。 深く考えもせず、店主に注文して金を払い………そして、後悔した。 その酒は彼女にとって特別のモノであったから。 大切な思い出と共にあるモノであったから。 それを思い出した時、その酒は飲むどころか、ガラスの瓶を目に映すことすら彼女に苦痛を与えた。 「まいったな…」 かといって、捨ててしまう潔さも彼女にはなかった。 それは確かに彼女に苦しい想いを抱かせるモノではあったけれど。 今でも大切であるコトに変わりはなかったのだ。 「バカだな。私も」 たった一本の酒を飲むこともできなければ、捨てることすらできないとは。 愚かな自分に苦笑しながら、彼女はその酒を棚の奥深くにしまい込んだ。 そうして、棚に隠した物のことなど忘れかけていた頃、事件は起きた。 * その日、ビクトールは元帝国士官の二人組アレンとグレンシールから酒に誘われていた。 ふだんはあまり話もしない間柄であったが、つい最近ビクトールが戦闘中にアレンを助けたコトの礼も兼ねて親睦を図ろうということらしい。 ビクトールにしてみれば礼云々はどうでも良かったが、タダ酒が飲めるというのであれば断る理由などない。しかもグレンシールが手に入れてきたという酒は一級品としても名の知れた銘柄だという。 だから、彼は昼食をすませると上機嫌でアレンの部屋に向かった。 戦いの呼び出しなどいつあってもおかしくないのだから、酒は飲める隙に飲む、というのがビクトールの主張だった。つまるところ、真っ昼間から酒盛りはマズイから夕食後にしようというアレンたちの主張は却下されたのだった。 しかしながら、着いたアレンの部屋は扉を叩いてみても中からの応答はなかった。 「ああ?まだ終わってねえのか?」 朝のうちに彼ら二人が軍師マッシュに呼び出されて何やら仕事を与えられていたことは本人たちに聞いてビクトールも知っていた。ついで、昼までにはすむ簡単な仕事らしいというコトも。 期待が大きかっただけに肩すかしをくらったビクトールはがっかりした。 「まあ、別にお流れってワケじゃねえだろうし。待ってりゃいいか」 廊下で待つ気などさらさらない彼はノブに手をかけ、舌打ちした。 別に鍵などかけずとも盗まれるモノもないだろうに。 自室の扉に鍵をかけたことなどない彼はそんなコトを思いながら、ズボンのベルト部分に隠している針金を取り出した。それで鍵穴を探ること数分、彼は本職の泥棒顔負けのお手並みで扉の鍵を開けると遠慮なく部屋の中に入った。 「こりゃまたシケた部屋だな」 ビクトールは狭い部屋をぐるりと見渡し、呆れた声で言う。 整理整頓され、きれいに片づいていると言えば聞こえはいいが、ベッドと小机、棚といった最低限の備品があるだけの殺風景な部屋だった。きちんとメイキングされたベッドやちり一つ落ちていない様子を見るとどうも人が生活している空間とは思いがたい。 「ちょいオレとは合いそうにねえタイプか」 床いっぱいに服やゴミを散らかし放題にしている彼はそんな感想をもらし、肩をすくめた。 ベッドか椅子にでも腰掛けて待っていようと思っていたが、どうにも居心地が悪い。 好奇心のせいというよりは気を紛らわせるために、彼はごく当たり前のように棚の上の方についている引き戸を開けた。 こういう所には使用頻度の低いモノが置かれているのが定番で。 「おっ、あるある」 予想していた以上に酒瓶の数が揃っていたコトにビクトールの相好が崩れた。 横に寝かせて置かれているボトルを取り出してみるとかなり年代物のワインだということがラベルでわかった。そして、そのほとんどがかなりの値打ちモノだと知り、ビクトールは驚く。 「よくもまあ、こんだけ買う金があるな」 極貧の解放軍にいて。 感心とも呆れともつかない唸りを上げて、彼は首を捻った。 しかしまあ、これだけ清貧っぽい環境からすれば酒以外に金の使い道がないのかもしれない。特にアレンなどは女遊びにも無縁そうだし。 それはそれでまあ可哀想なもんだな、所詮他人事とばかりの同情を呟き、顎に手を当てた。 「で、どうすっかな」 目的の酒は目の前にずらりと並んでいた。 足りないのはそれの持ち主で。 一緒に飲もうと誘われた手前、勝手に始めてるってのもマズイだろう。 そうわかっていても、ごちそうを前に出された子供よりもおそらくこらえ性のない男はまず本能優先で生きていた。 眉間にシワを寄せてワインラベルをじっと睨み、 「こいつは弁償できねえかもしれねえしな」 ちょっと失敬しても大丈夫なヤツはないもんかね、と思う。 そして、もう一度棚を探ってみると… 「おっ、あるじゃねえか」 ノーラベルの安い酒が一本。奥の方に転がっていたそれを彼はめざとく見つけた。 これだけ良い酒がありながら一本だけ安物なのは人からもらったか、それとも気まぐれで買ったのか。未開封のまま一番奥にあったということはおそらく持ち主に飲む気はないのだろう。 いや、絶対そうに違いないとビクトールは勝手に決めつけて、器用にコルク栓を抜いた。 約束の時間を過ぎて、人を待たせる方が悪いのだ。 「返せっつっても、こいつなら弁償できるだろうしな」 そうして、いつもの気楽さで彼は大きな過ちを犯したのだった。 NEXT |