夜の闇を背にして、彼女は吐息をついた。
 簡素なシャツから露わになった肌はほんのり桜色に染まり、風呂上がりのかすかな熱を伝える。
 窓辺にもたれた彼女は濡れたままの髪を無造作にタオルで拭きながら、ぼんやりと室内を見渡す。
 チリ一つ落ちていない部屋は殺風景ともいえるほど片づいていた。
 そこが瓶の破片や破れた本などで散らかっていたのはもう一週間も前になる。
「本当に…」
 大人げない振る舞いだった。
 その時のことをまざまざと思い返しながら、彼女はそっとため息をつく。
 何事にも常に冷静であることを心がけていたというのに、自分のしたコトは感情的、以外のなにものでもなくて。周りの人々にもずいぶん迷惑をかけてしまった。
 そして、なかでも一番の迷惑をこうむったのはあの男にちがいないだろう。
 胸の内で呟き、かすかに苦笑する。
『だが自業自得だ』
 彼に関しては同情してやる気など彼女には毛頭なかった。
 根っからの悪人ではないヤツだと知っているから今回の事も大目にみてやったが。
 勝手に私の部屋に忍び込んで。
 勝手に私の大切な酒に手をつけた男。
 本当は思うだけで今でも目の前が熱くなるような激情にかられそうになる。
 そして、自分自身のそんな未熟な部分に彼女は嫌悪感を抱くのだ。
「本当に…たかが酒一本のコトで」
 試みにそう呟いてみる。
 しかし、「たかが…」と続けた声が彼女の耳には奇妙に歪んでいるように聞こえた。
 それは彼女自身、虚勢を張った言葉だと理解していたから、なのかもしれない。
 沈んだ気持ちを誤魔化そうと作った言葉は逆に、彼女の心に突き刺さった。
「たかが…じゃなかった、な」
 音を立てて砕けた一本の酒瓶。
 ただの破片と化したそれが目に映った瞬間、自分のなかにあった何かも一緒に壊された気が、した。
 そう、最初に感じたのは怒りではなかった。
 ただ人前で泣いたりしたくはなくて。
 己の弱さを他人に見せるなど許せなくて。
 だから、どうにもならない悲しみを怒りにすり替えたのだ。
「私は…」
 震える吐息が夜気を揺らす。
 言葉にならぬ思いをこらえるように、彼女は目を閉じた。

 *

 向かい合う距離はこれまでと同じで。
 穏やかな微笑も、話しかけてくる冷静な口調もよく知るものだった。
 だから、そんな相手にちょっとした違和感を感じるのは自分の気のせいだろう、と彼は思っていた。
 −−−初めのうちは。
「まだ怒ってんのかよ…」
 まいったな、と彼はひとりごちる。
 ちらりとも自分を見ようとしない瞳にそうとはっきり気づいたのは問題の日から一週間も経ってからだった。
 さりげない仕草で通り過ぎる視線は故意か、無意識なのか。相手は書類の文字を追うなどして実に巧みに彼と目を合わせることを避けていたのだ。
 彼がそのコトに気づくのに遅れた理由はもう一つある。
 彼自身もまた、ちょっとした後ろめたさから相手を正視しないよう目を反らしていたからだ。
 しかし、後ろめたく思ったのは別に自分が間違って女性の部屋に無断侵入したとか、持ち主に断りもなく酒を飲んだとか、そういうコトに対してではない。
 その件に関してはもう話もついて、済んでしまったことだ。
「まいったな…」
 彼はもう一度呟き、こぼれるため息を遮るように口元に手をやった。
『私の部屋で何をしている』
 ただただ呆然と自分を見つめる瞳があった。
 自分が何をしてしまったのか、理解するのは早かった。しかし、どう応えたものかと戸惑う彼の手からするりと抜け落ちた酒瓶。もしかしたら、かなりうろたえていたのかもしれない。 
 ガラスでできた瓶は石の床にぶつかり、派手な音を立ててあっさり砕け散った。
「−−−−ッ」
 その瞬間、彼が見たのは思わず目を奪われるほどに強い感情を宿した瞳。
 鋭い刃で胸を突かれた気がした。それくらい…痛いくらいの哀しみがそこにはあったのだ。
 そう、とっさに『泣くのか!?』と彼が思ったくらいには。
 あの、気丈で、男も顔負けに強い女が?
 それだけひどいコトを自分はしたのだろうか?
 しかし、混乱しかけた彼にぶつけられたのはごく当たり前に怒りで満ちた罵声だった。
 だから、そのことにホッとしながら彼は逃げた。その後は剣を交えた時にしても、彼女はいつものごとく強い意志にあふれた瞳をしていて。
 できることなら、アレは自分の単なる見間違いだったのだと…そういうことにしてしまおうと思っていた。
 たとえそれが、そうそう忘れられるようなモノでなかったとしても。
「だああっ、なんっつーか……まいった」
 頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、彼はがっくりと肩を落とした。
 もっとはっきりした態度や言葉で非難してくれたなら、どうとでも対応できるだろうに。
「どうしろってんだよ…」
 たぶん…いや、たぶんなどではない。
 あの時絶対に、自分は彼女の心を深く傷つけた。目を合わせたくもないと嫌われるほどに、だ。
 別に日常生活や解放軍での仕事などに不具合が生じたわけではないが、やはりなんとなく気が晴れない。
「たかが酒一本でよ…」
 呟き、顔をしかめる。
 自分が失敬した酒が『たかが』というモノではないらしいコトは彼も薄々感じ始めていた。
 他人にはなんでもない物も、誰かにとっては特別だったりするわけで。
「しゃあねえか…」
 酒一本で自分が被った被害の数々を考えれば割が合わない気もするが。
『このままじゃ夢見が悪くて、おちおち寝てもいられねえしな』
 同じ物でも買って、返すとするか。
 それが一番の得策だろう。



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