風が吹いた。
 その時、ひらりと目の前を横切った淡い彩に彼女はふと足を止めた。
 床の上に舞い落ちたのは一枚の小さな小さな花びら。
 どこからやってきたのだろうと思いながら首を巡らせ、窓の外へ目を向ける。
「桜…か」
 少し離れた湖岸で、一本の大樹がやさしい色の花をいっぱいにかかえていた。
 仲間たちのちょっとした思いつきでそこに植えられた時は、その蕾もまだ固く閉じられていたというのに。
 いつの間に咲いていたのだろう。
 忙しさにかまけて、そんなことにも気づかなかった自分に苦笑する。
『きれいな色だ』
 忘れていた大切な何かを思い出せた気がした。
 それをうれしく感じながら、彼女はついと戸外へと足を向けた。

 *

 石造りの廊下を慌ただしく行き交う足音が聞こえる。
 それに思わず苦笑をもらしながら彼は自室で自分の愛剣を手に取り、念入りに最後の点検をしていた。
 帝国軍との戦闘開始までもう間近に迫っていた。
 軍備、兵数に劣る解放軍はそれをまかなうためにギリギリまで奔走しているのだ。
 そんな状態で本当に勝てるのか?
 まるで他人事のように彼は思う。
 しかし、負ける気などさらさら感じていない彼にとって、その愚問はまさに他人事に違いなかった。
「おい、ビクトールっ」
 ノックもなしにドアが開け放たれる。
 勢い込んだ口調からしても、よほど余裕がないのだろう。
 それでも、ふだんからノック云々など気にしないビクトールは剣に目を落としたまま、振り向きもせずに黙々と作業を続ける。
「おめえはもう準備できたのか?フリック」
 そう問いかけると「まだだっ」と噛みつくような返事。
「時間がないってのに人捜ししてんだよっ」
「あー?そりゃ大変だな」
 戦闘準備のために誰もが走り回っている時に、彼のように自室にいる者の方が稀だ。
 どこにいるともわからない相手を探す手伝いをしろと言われたら嫌だな、と思いながらビクトールは刃を日の光にかざして目を細める。
 前の戦闘で刃こぼれしたそれは鍛冶師たちのおかげできれいな直線を描いていた。
「よおくわかってんじゃねえか、ビクトール」
 あくまで無関心という態度の彼に、怒りをはらんだ低い声が響く。
 カツカツという靴音と共に近づいてきたかと思ったとたん、握ったこぶしがビクトールの頭を直撃した。
「ってえッ。なにし…」
「俺は忙しいんだよっ」
「オレだってな、ヒマじゃねえっ!」
 やらねばならないコトをやっているのだ。
 それを邪魔されるいわれはないと睨みつける彼に、フリックもまた負けじと睨み返す。
「探してんのはバレリアだ」
 自分の部隊をほうったらかしでどこにいるかわからないんだと。
 その言葉にビクトールは一瞬、呆気に取られた。
「なんの冗談だ?そいつは」
 元帝国士官バレリアの責任感の強さは誰もが知るところだ。
 くだらねえコト言ってんじゃねえよ、とばかりに鼻先で笑い飛ばそうとした彼の頭がもう一度、殴られる。
「こんな時に冗談言ってるヒマあるかよ」
「そりゃそうだが…」
 確かにそうだが、と眉間にシワを寄せる彼にフリックはびしっと指を突きつけ、
「俺は忙しいんだ!おまえが探せっ」
 堂々とそう宣言した。
「へ?」
「おまえは彼女の恋人だろう?」
 恋人だな?
 恋人なら、居場所の見当くらいつくだろう?
「すぐ見つけられるよな」
 たたみかけるように言うフリックをビクトールは呆然と見返す。
「おいおい、無茶苦茶言うなよ…」
「いいや、無茶なものか」
 おまえの愛の強さが道を作ってくれるさっ!
 真剣きわまりない顔で告げられたあまりにもクサすぎるセリフに脳死しかけたビクトールを尻目に、
「じゃ、頼んだぜ」
 走り去るフリックの早さといえば、まさに脱兎の勢いという代物だった。

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