褒め言葉

『あれ?』
 廊下の先、自分の方へと歩いてくる人影に気づいて、彼は軽く目を細めた。
 キレイに金髪を結い上げた女性。
 出てきた場所からして、それが『誰か?』なんてのは愚問だったが。
 ふだんしかめっ面でいることの多いその人が楽しそうにクスクス笑っているとなると驚かずにはいられない。
 夜勤明けで疲れていたが、見間違いではないだろう。
 しかも、意外なことに今の彼女は軍服ではなく、真っ赤なスーツを身につけていた。まあ、服装自体は、更衣室で軍服に着替える間もないくらい緊急の用事が朝から入ったためと考えられたが。
 それはおよそ『非常事態』という言葉が相応しい出来事に見えた。
「あ、少尉。おはよう」
 相手との距離がほんの数メートルという位置まできてようやくハボックに気づいたように言う。それもまた彼女らしくない反応だった。
 いつもなら、もっと早くからハボックの存在に、他者の視線に気づいているハズなのだから。
 そんな意外さに、ハボックは思わず相手をしげしげと眺めてしまった。
「はあ、おはようございます。中尉」
 彼女は軍服姿も似合っていたが、私服姿になるとまたずいぶん雰囲気が違って見えた。
 しかも今回は赤い皮のジャケットに膝上のミニスカートという出で立ちで。
 良く似合うという以上に、イロイロと魅惑的な格好だと言えた。
 でも。
 セクハラまがいの下手な褒め言葉は、自分の身を危なくするとわかっているから決して言わない。
「今日はまた珍しい格好ですね」
「変かしら?」
「まさか!ま、似合いすぎるのが難ってとこですかね」
 茶目っ気を混ぜながら、ニヤリと笑って言う。
 中尉は「ありがとう」と小さく笑って、それからふと息をついた。
 何か呟くように唇が動いたが、なんと言っているのか聞こえなくてハボックは首を傾げる。その拍子に唇にくわえていた煙草の灰がわずかに宙に散った。
「どうかしたんですか?中尉」
 また大佐がなにかやらかしましたか?
 煙草の灰を床に払い落としながら、100%の確信を持って問いかける。
 しかし、返ってきた中尉の笑みは実にあいまいなものだった。
「何か、というほどのコトではないのだけど」
 ただ。
「あの人のセンスがもう少しまともだったら、女性との仲ももう少し長続きするんじゃないかと思って」
「はあ?」
 何デスカ、ソレハ?
 意外すぎる内容に目を丸くするハボックに、中尉は苦笑して言う。
「たいしたコトじゃないから、気にしないでちょうだい」
「はあ…」
 大佐のまともじゃないセンスってのは、どれのコトだろうか?
 突拍子もない人で、まあ独特のセンス感がある人だとはハボックも思っていたが。女性との仲に関係してくるような何かがあっただろうか?
「気にしないでって言われてもなあ…」
 大きな謎を残したまま去って行く後ろ姿を見送り、彼は白い煙を吐き出す。
 当初の目的地だったマスタング大佐の執務室はもう目の前まで来ていた。
 その扉を開ければ、そこで中尉に何があったのかわかるかもしれない。
 …のだが。
 イヤ〜な予感がするのも確かで。
 しばらく迷ったものの、手に持っている報告書を届けなければ家に帰るコトも出来ない。
 新しい煙草に火を付け直し、大きくひとつ吸い直す。
「オレです、大佐。入りますよ」
 ノック一つにぶっきらぼうな言葉を付け足して、彼は扉を開けた。
 そして、やっぱりこの扉は開けるんじゃなかったかもしれない…と後悔したのだった。

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