シンと静まり返った室内。
まだ早朝という時間も相まって人気のないそこで、徹夜明けした部屋の主はというと大きな執務机に突っ伏したままぴくりとも動かなかった。
襟元も緩めぬ軍服姿のまま、上半身が机の上に伸びている。
両手を無造作に前に突きだした様子は”仮眠をとっている”というよりも、”討ち死に”の姿に近い。
しかし、のんびりと煙草を吸いながら近づくハボックはただただ呆れたように上司を見下ろす。
「なに死んでんですか?大佐」
「…………」
返事どころか、息をしているのかと疑いたくなるくらい微動だにしない。
さてさて、ふてくされているのか、落ち込んでいるのか。
とにかく、しばらく死体でいるらしいその様子に、やれやれとため息をつきながらハボックは持っていた書類を机の端に置く。
「Y事件の報告書、ここに置いときますよ」
認め印をもらうような決済書類でなかったのは幸いだった。
触らぬ神に祟りナシ、という言葉が相応しい相手に余計なちょっかいをかける気力も体力も今のところやや不足気味で。
中尉とのコトは気になったが、『まあ、いいか』とそれだけで好奇心を思考の隅に追いやってしまえるのもまた彼の特技である。
「それじゃ、失礼します」
くるりと背を向けて、扉に向かう。
そして、ちょうどドアノブに手をかけた時、彼を呼び止める声は響いた。
「少尉」
「?」
くぐもった声に顔だけ振り向けば、声の主はまだ机に突っ伏したままだった。
ただ、伸ばされていたはずの手がこぶしの形に握りしめられているのがわかった。
「呼びました?大佐」
握られたこぶしにググッと力がこもったが、聞こえてきた声は弱々しい。
「中尉……」
「は?」
「今日、中尉にはもう会ったかね?」
「はあ、さっき会いましたけど」
そこでいきなりガバッと起きあがった男の勢いに、ハボックはぎくりと身構える。油断大敵、という言葉もまたマスタング大佐には相応しい。
とはいえ。
「それでっ、中尉はどんな様子だった!?」
真剣な表情で何を聞いてくるかと思えば、ソレですか。
有能な上司のハズなのになあ、とハボックは少し脱力しながら肩を落とした。
「どんなって…いつもと変わりませんでしたよ」
オレと話してる時は。
「そ、そうか…」
わかったと言いながらも、やけに落ち着きのない相手の様子にハボックは苦笑する。
「なにかやらかしたんですか?大佐」
いつものことでしょう、と言外に含ませて言うと、ムッとした顔つきで怒ったような声が返ってきた。
「別にたいしたコトじゃない」
しかしまあ、少なくとも人には言いたくないようなコトをしたのは確かだろう。
ただ、この上司からそんなコトを聞き出せるとはハボックも思っていないから、諦めるのも早い。
「そうすか。…じゃ、オレはもう失礼していいですね」
あっさり視線を扉に戻して、出ていこうとする。
と、呼び止める声が再び響いた。
「少尉っ」
「だから、なんなんですかっ?」
半ば以上、うんざりしながら振り返ると、非常に真面目くさった顔で自分を睨みつけている男の目とかち合った。
本当にやれやれという事態になったものだとハボックは内心思う。
「少尉は、その、私服姿の中尉に会ったと思うが…」
「ええ、まあ」
「君はその時、何か…言わなかったか?」
「何かって…別に、珍しい格好ですねって」
「その他には!?」
そんなに必死の形相で聞くような話ですか?と言いたかったが、なぜか言えるような雰囲気ではない。
「他っていっても、良く似合いますねってなコトを言っただけですよ」
別に中尉を口説くような、そんなオソロシイ真似はしてませんよ?と言外に告げつつ、ため息をつく。
しかし、大佐が本当に聞きたかったのはこの先、だったらしい。
「それで、中尉はなんて言って返した?」
「へ?ただ単に『ありがとう』ってだけですけど」
そこでガックリと、傍目にもよくわかるほど大佐は大きく項垂れた。両手を机について沈黙している姿はハッキリ言って、暗い。
「そうか…それだけのことで”ありがとう”と言われたのか」
そんなことをぶつぶつ言っている。
ここまでくれば、ハボックにも大佐と中尉の間に何があったのかなんとな〜くわかってきた。
「大佐、まさか中尉にセクハラまがいのコトでも言ったんじゃないでしょーね」
カマをかけてみると即答で「違うッッ」と返ってきた。
「そんなコトを私がするハズないだろうがッ」
確かに、そんなコトをした後で中尉から返される仕返しを考えれば出来るものではない。
それに大佐の顔に手形はないし、なによりあの時、中尉は笑っていたのだ。それも楽しそうに。
「じゃあ、何言ったんですか?」
「…………ッ」
珍しく顔を真っ赤にする上司の姿に、ハボックもまた面食らった。
そんなに恥ずかしいコトを言ったのだろーか?
とても気になる面白いネタなのだが、これは照れ隠しと八つ当たりでいつ炎が飛んできてもおかしくない状況なのだととっさに判断する。
そして、いつでも扉を開けられるように身構えながら、
「ま、中尉は『もう少しセンスが良ければ、女性との仲も長続きするだろう』ってなコト言ってましたよ」
ハボックはもう一度、カマをかけてみた。
どういう反応をするかと緊張する彼の前で、思わず絶句した大佐は力尽きたようによろめき、椅子に腰を落とした。
「やっぱり…そう思っていると思ったんだ」
深く静かにショックを受けている。本当に珍しい。
これにはハボックもついつい好奇心に負けて、ぽろりと口をすべらせた。
「すごく意外なんすけど、大佐のホメ言葉ってそんなにセンスないんですか?」
とっさに”ヤバイ”と思ったものの、予想した攻撃はなく、返ってきたのは空気を震わせる深いため息。
「誰に言ってるのかね?少尉。女性への褒め言葉に事欠くようでは、”私”は務まらない」
「はあ…」
なんかスゴイ台詞を吐かなかっただろーか?この人は。
思わず白い目を向けそうになったハボックの前で、大佐はぼそりと呟く。
「ただ…例外があるだけで」
「例外、ですか」
反射的に中尉の姿が浮かんだが、ハズレではあるまい。
「そう、私も自分の褒め言葉リストにはいささか自信があるが、彼女相手にはどれを言ったものかと迷って緊張するんだっ。アレはこの前のデートで使ったとか、こっちのは先月別れた彼女に言った言葉だとか…とにかく変なコトを言ったら殴られるに決まっているし」
再び握りしめた大佐の拳がぶるぶる震えている。
「はあ、そうですか…」
それはそのまま聞けば、殴られないようにと緊張して失敗するのだと取れるコトだが…。
”彼女”が特別だから緊張して失敗するのだ、と解釈できそうな気がするのは単なる気のせいだろーか?
「どうすれば、緊張せずにすむと思う?少尉」
いやあ、そんな深刻な顔でそんなコト聞かないでほしいんすけど、とは言えなかった。ハボックはため息を噛み殺しつつ、少し沈黙し、
「大佐」
と、彼にしては珍しく真剣な声音で応じた。
「簡単なコトですよ」
「そ、そうか?」
そうなのか、と期待に満ちた目を見返し、力強く頷く。
「そうです。殴られる時は殴られる!緊張するしないはあんまり意味ないってコトです、大佐」
ニッと笑って、反撃が来る前にハボックは部屋を出た。
最後に見たのはガーンと強いショックを受けたように硬直する上司の姿。
思わず喉の奥に笑いがこみ上げてきて、『ああ、なるほど』と彼は納得した。
『なぜ、あの時、中尉が笑っていたのか?』
その謎がなんとなくわかった気がした。
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