どれほど離れた距離にあっても、ひと目でその人と見極められる。
それが彼女の秘かな自慢だった。
『いた』
廊下の先で軍服を着た女性と親しげに話し込んでいる後ろ姿。
黒髪で長身の男なら他にもいたが、決して見間違えることはない。
なぜなら、”彼”がまとう雰囲気には独特なものがあったから。
それに。
佇む時の足の位置や組み方とか。
首を傾げる時の角度やタイミングとか。
笑う時に揺れる肩の線etc..
いつの間にか覚えてしまったそんなコトが彼の存在を知らしめる。
そして。
同時に理解してしまう。
今の彼がイライラして不機嫌な状態にあると。
たとえ、にこやかに笑って楽しげな話題を口にしてはいても、気持ちはそこにないのだとわかってしまう。
今頃はきっとあの頭の中でこの場から逃げ出す口実を探しているに違いない。
そう思うと、このまま自分からその”口実”を与えてしまうのが癪で。
報告書を手に立ち止まり、彼女はさりげなく踵を返そうとした。
と、
「中尉」
思いのほかよく通る声が耳に届いた。
イヤというほど聞き慣れた声を聞き間違えるコトはない。
まだ十メートル以上の距離があるというのに良く気づいたものだと驚き半分、呆れ半分で視線を戻す。
するとそこには、サボっている彼を呼び戻す時にいつも見せられる迷惑そうな顔があった。
ただ、今回ばかりはいつもと少し状況が違うのだと、見慣れた黒い瞳の様子で理解する。そこにちらつくのは彼女に対する明らかな怒り。
声も口調も表情も、そうとはハッキリ語らないが。
『怒ってるわね』
確かに感じる。
その理由も見当がついていた。
怒りの理由は多分に、困っている(らしい)彼を見捨てて彼女が引き返そうとしたせい。
しかし、そんなコトで腹を立てられても知ったことではないと思う。
それは間違っていないハズ。
「急ぎの件か?」
望んで呼び止めておきながら、イヤそうにひそめられる眉。
そこに誰をも欺く見事な演技力があろうと、彼女はその裏に隠された本心に気づかずにはいられない。
このままNOと答えれば、きっと彼は拗ねてどこかに姿をくらますくらいやりかねないだろう。それは困る。本当に困るのだ。
だから。
YESと答えるしかない。
理不尽な成り行きに沸き上がってくる怒りを彼女はぐっと堪えた。
「ハイ。できれば、すぐにでも執務室にお戻りいただきたいのですが…」
視線が刃と化すなら、既に何本もの剣が突き刺さっていておかしくない男はやれやれというように肩をすくめて女性を振り返る。
この後に続く甘い別れの言葉など彼女は聞く耳持たなかった。
そのうえ、嫉妬混じりのキツイ視線を向けられるのも御免被りたい。
彼女はさっさと身を翻した。ナンパ師の上司がちゃんとついて来るかどうかも、怒りのあまりだんだんどうでもよくなってくる。
仕事をサボって女性と話し込んでいながら、それを切り上げる口実を自分に求めてくるなんて一体どういう神経をしているのか。
あまりにもずうずうしすぎるし、また、その状況に従ってしまった自分自身にも彼女は怒りを覚えた。
何も知らなければ。
何も気づかずにいたなら、おそらくもっと気楽に接することができただろうに。
どこで間違ってしまったのか?
『ちがうわね…』
胸の内で呟き、彼女はため息をついた。
根本的な問題は。
いつの間にか当たり前になった互いの”近さ”。
相手の思惑すら見透かしてしまうほどの理解は時に便利で、時に面倒な状況を作り出してくれる。
『…』
後方から近づいてくる靴音に、彼女は足を速めた。
そんな無駄な努力を嘲笑うかのように靴音はあっという間に彼女に追いつき、感じ慣れた気配が隣に並ぶ。
それはほんの一歩もないほど近い距離。
それが許される上下関係であり、またそこにいるコトを許すほどには相手を信頼している。
ただ。
時々、その近さに苛立ちを覚える。
「中尉」
「ハイ」
「怒っているのか?」
どの口がそんなコトをほざいてくれるのか。
平坦な口調からは罪悪感や申し訳なさといった感情もまったく感じ取れない。
つまり、からかっているのだと知ってこめかみの辺りが引きつった。
「当たり前です」
前を向いたまま、突き放すように言う。
「イヤなら嫌で、ご自分でなんとか処置すべき事もあると思いますが」
それだけで、彼には理解できるはずだった。
案の定、『どういう意味か?』と問い直しもしなかった男は、
「わかってはいたが、迷いどころだったのでね」
なんて言葉を珍しく深刻な声音で返してきた。
どうせこれもからかいの一端…そう思いつつも雰囲気の重さにほんの少し心配してしまう。そんな自分の甘さはいつになったら克服できるのか。
「デートに誘うか、やめておくか」
それに迷ったんだと平然と言う相手に、彼女は深く強い脱力感を覚えた。
そう、気づいてしまうからこそ、怒りよりも呆れてしまう。
彼が迷ったというのは本当。
そのうえ、相手をデートに誘うか否かを本気で迷ったというのも真実と知る。
だが、そんなコトで自分にまで迷惑をかけないでほしいのだ。
「大佐。迷うくらいなら、お誘いにならない方が相手のためです」
ため息混じりに最低限の忠告をしておく。
「今度からはそうすることにしよう」
素直に頷く様子に『馬の耳に念仏』という異国のことわざを彼女は思い出しながら、足を止めた。
そこはもう執務室の前だった。
脱力していた意識に渇を入れながら、相手に書類を差し出す。
その距離はやはり一歩もないほど近かった。
それほど近く、彼女のすぐ目の前で、彼はふと何かに気づいたように口を開いた。
「中尉、あれだな…私が言うのもなんだが」
わずかに首を傾げて見下ろしてくる。
その瞳に浮かぶ悪戯っぽい光に気づいて彼女は身構えながら「ハイ」と応えた。なのに。
「恋というのは難しいモノだな」
「は、あ?」
何か言いましたか?
初めて聞いた未知なるセリフに彼女は倒れそうになった。
しかしだからこそ、からかわれたのだとすぐ気づく。
そして。
『でも…』
と思うのだった。
まさか、さっきの女性と何かあったのだろうか?と。
思わず深刻な状況など想像してイヤな気分を味わったところで、飄々とした上司の声が降ってくる。
「中尉、朝の件に関する資料なのだが…」
ほんの一歩もない距離はとても近くて。
しかし、互いのすべてを知るほどには近くない。
それでも。
この時、彼女は気づいた。
いつの間にか消えてしまった怒り。
それは間違いなく彼の仕業によるのだと、ふいに気づいた。
『近すぎるのも困りものだけど』
やっぱり便利なのよね。
そんなコトを考える彼女の口元にそっと物騒な笑みが浮かぶ。
それを見ずにすんだのは男にとって、そう、おそらく幸運だったハズである。
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