どれほどうるさい雑踏の中にいても、近づいてくる足音だけでその人と聞き分けられる。それが彼の秘かな自慢だった。
『彼女だ』
振り返らなくてもわかる。
廊下の向こうから、自分のいる方へと歩いてくる靴音。
しっかりとした足取りのわりに軽くて、スピード感のある特有の響きを聞き間違えることはない。
それに。
後頭部に突き刺さるような鋭く、ぶしつけな視線とか。
漂ってくる怒りのオーラとか。
休憩と称して執務室を抜け出し、ついつい時間を過ごしてしまった身には痛すぎるそれも、すでに馴染み深いモノ。
捕まれば説教じみた小言か嫌味をくらうのだろう。
それでも、今回ばかりは逃げずに待ち受けることにする。
目の前で楽しそうにはしゃぎながら話を続ける女性が一人。階級は少尉だが、父親が将軍位に就いているご令嬢でもあった。
無下に扱うわけにはいかない。
『まいったな…』
器量も良く、話の内容もあわせやすいとなればデートに誘うのに申し分のない相手ではあった。そうと誘われるのを期待しているような雰囲気もある。
お近づきになっておけば、何かメリットを得られるかもしれない女性。
冷静に損得勘定をする頭が『誘ってしまえ!』と告げる声が聞こえるようだ。
しかし。
言い慣れた誘い文句を告げるのはためらわれた。
そんな風にためらう理由もわかっていたから、彼は迷いを振りきれない。
誘うべきか、このまま誘わないでいるべきなのか?
本当にくだらない問いに違いなかった。
愛想良く笑いながら、他愛のない話を続けている自分自身も滑稽に思えてどうしようもなく苛立っていた。
だから、正直言って、勤勉な部下の登場は彼にとって救いだったのだ。
なのに。
ほんのかすかに緩んだ足音。
それだけで、そう、それだけで彼は足音の主が何を考えたかに彼は気づいた。
感じたのは驚きと焦りと。
そして、更なる苛立ち。
「中尉」
できるだけさりげなく、今、なんとなく気づいたというように振り返り、呼ぶ。
廊下の向こうでちょうど踵を返そうと斜めを向いていた中尉がゆっくり向き直りながら、少し意外そうに目を細めて彼を見た。
本当はかなり驚いたはずだった。しかし、そうと相手にさとられるような表情の変化を彼女が見せることはあまりない。
「急ぎの件か?」
YESという答えを期待しながら、わざと迷惑そうな表情を作ってみせる。
それは腹立ちまぎれの挑発でもあった。NOと答えたなら執務室にはもう戻らないという…子供じみた気持ちでの挑戦。
不躾なほどまっすぐ自分を見据えてくる瞳に、ちらりと殺意めいた鋭さが横切ったような気がした。
いつもなら、たとえ急でなくとも彼を執務室に連れ戻すために『急用』の言葉を多用するくせに、珍しく空いた数秒の時間。
「ハイ。できれば、すぐにでも執務室にお戻りいただきたいのですが…」
淡々とした声が紡いだのは、彼が望んだ答えだった。
彼は内心ホッとしながらも、それを顔には出さずに傍らにいた女性へ別れを告げてその場を後にする。
中尉の姿は既にない。
その事実に思わず苦笑が漏れていた。
仕事をサボって女性と話し込んでいながら、それを切り上げる口実を彼女に求めたのだから腹を立てられて当然なのだろう。
だが、そんな自分の思惑にまで気づく”聡さ”も問題ではないだろうか?
『いや…』
問題はそれだけではないだろう。
致命的なのは、いつの間にか当たり前になった互いの”近さ”。
『いた…』
廊下の先を早足に行く後ろ姿を見つけ、彼はもう一息と足を速めた。
まるで競い合うように刻まれる靴音に紛れるようにして追いつき、並んで歩く。
二人の間にあるのはほんの一歩もない距離。
そこにいても許される上下関係があり、そこにいることを許す信頼があった。
それはいつの間にか、互いへの理解をも深めた。
「中尉」
「ハイ」
「怒っているのか?」
「当たり前です」
前を向いたままの彼女は『くだらないコトを聞くな』とばかりの口調で応えた。
「イヤなら嫌で、ご自分でなんとか処置すべき事もあると思いますが」
それは正論ではあったが。
”迷い”の理由の一端でもある彼女に言われるには少々不快な正論であった。
だから、気難しそうな素振りを見せつつ、言ってみる。
「わかってはいたが、迷いどころだったのでね」
「?」
「デートに誘うか、やめておくか」
さりげなく横目で覗くと、中尉の眉がきつく寄せられるのが見えた。
隠されることのないため息が空気を震わせ、思わずというように細い手が額を押さえる。
「大佐。迷うくらいなら、お誘いにならない方が相手のためです」
呆れた声音で手厳しい言葉を告げる。
そんな彼女らしいセリフに彼はこっそり笑いを噛み殺した。怒りを通り越して呆れてくれるなら、ひとまず作戦は成功。
「今度からはそうすることにしよう」
そう言って、立ち止まる。
そこはもう執務室の前だった。
早くも業務態勢に入った中尉が無言のまま書類を差し出し、入室を促してくる。
そんな彼女までの距離はやはり一歩もないほど近かった。
だから。
試してみる。
「中尉、あれだな…私が言うのもなんだが」
「ハイ」
「恋というのは難しいモノだな」
「は、あ?」
なんですって?と驚いた顔をしたかと思えば、からかわれているのかと嫌そうな顔になり、次に眉間にシワを寄せて真剣な顔になる。
彼女が何を考えているか、彼には手に取るようにわかっていた。きっと先程の女性との関係について深刻に考えているに違いない。
ほんの一歩もない距離は近くて。
だがしかし、互いのすべてを知るほどには近くない。
今はまだそれでもいいかと思いながら、意外なところで鈍感な部下に声をかける。
「中尉、朝の件に関する資料なのだが…」
この後、鈍感であるハズの相手に対し、認識を改めるような事態が待ち受けていることまでは…さすがの彼も与り知らぬことであった。
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