どこから後悔していいのかわからなくて。
 できることなら、この場から逃げ出してしまいたい。

『でも…』

 今、逃げてはいけない。


 それがその時抱いた、共通する気持ち。

「だから、『逆説』だと言ったんですよ」

 からかいを込めて残されたその言葉にアンティは軽い目眩を覚えた。
 相手のコトをずっと嫌いだと思っていて、でも、惑った現実。
 ならば考えられる可能性はその『逆説』から導き出されて至極当然だったのだ。
 しかし、自分は曇った眼でそれを見落とし、やり直せたはずの機会を何度も持ちながら、そのすべてにおいて選択肢を間違ったのだ。
 そして、これがまさに自分に残された最後のチャンス。
『もう…逃すわけにはいかないわ』 
 自分の鼓動の音さえ相手に聞こえてしまうのではないかという沈黙に息苦しさを覚えながら、アンティはゆっくりとコントロルの方へと体を向けた。
 彼女の視線はずっと足下に張り付いたままだったが、ほんの一メートルもない距離ではコントロルが緊張から体を強ばらせるコトにも気づいた。
 自分の顔を見られたら、それだけで何もかも相手に知られてしまう気がして、アンティは顔を上げることができない。沈黙は重く、今にも逃げ出したい恐怖にかられそうになる。
 それでも、そんな恐怖を無理矢理ねじ伏せるのはこれ以上、相手を傷つけたままでいるわけにはいかないと思うから。そしてまた、自分自身の苦しみを終わらせることができるのも今しかないと感じるからだった。

『もし、わたしがウィルスさんのことを忘れるコトでウィルスさんが幸せになるなら…
 わたし、ウィルスさんのこと、全部忘れますから』

 金色の髪の少女の言葉を思い出す。
 コントロルもそんなコトを考えたのかもしれないアンティは思った。
 合理的な予測回路の結果だけではなく、自惚れも混じっていたかもしれないけれど『たぶんきっとそう』なのだと…。嫌いになったから自分のコトを忘れようとしたとは、先ほどの状況からするとナイ…と信じていたかった。
 なんて都合のイイことを!という自覚は十二分にある。
 でも、そうとでも思っていないとこれから言うセリフはとても口にすることができなかった。
 押さえようとしてもどうしても早くなる心拍数をできるだけ整えながら、覚悟を決めて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
 触れる空気が、自分の顔に宿る体温を嫌というほど教えてくれる。
 思わず逃げ腰になりそうな視線を無理矢理まっすぐ軌道修正して向けると、ひどく驚いたコントロルの様子が見てとれた。
『きっと変な顔をしてるんだわ』
 そして、これからもっと変な顔になるに違いないと思う。
 でも、こんなところで止めるわけにはいかないのだ。
 アンティはぎゅっと手を握りしめ、途切れそうになる息を吸い込み直し、思いきって口を開いた。


「あなたが好きなの。コントロル」


 澄んだ声がかすかに震えを帯びて響く。
 いつもと違いすぎる相手の様子と雰囲気に、コントロルは思考回路が麻痺したようにすぐには反応できなかった。
 手を伸ばせば届く距離に居る相手のその表情と言葉に、どくんと胸が鳴る。
 与えられると思っていたのは断罪の言葉だった。
 データ消去に関してはどう転んでも自分にとって辛い結果になるに違いないと思って覚悟してぶん、肩すかしをくらった気分だった。
 しかも、自分を見上げたアンティはいつもとは違っていて。
 なにより、首まで真っ赤に染まった顔も、まっすぐに向けられながらも何かに怯えるように震える瞳も、コントロルが見るのは初めてのものばかりだった。
 ぎゅっと握りしめられた手はあまりにも固く小さなこぶしになっていて、爪が食い込んで痛いのではないかと思わせた。
 そして。
 『好き』という言葉。
 仲間として以上の意識が込められた響き。
「アンティ…?」
 うれしい。
 すごくうれしくて、胸が熱くて苦しくて、これが夢でなければいいと思う。

 でも。

 どんなにうれしくても、どうしてアンティがそんなコトを言うのかがわからなくて。
 嫌われているのだと思いこんでいたコントロルは告げられた言葉を信じきることができなかった。
 信じたいけれど、信じてしまうのが…怖い。
 アンティの不安げに揺れる瞳や仕草が、言葉の真実性を表しているように思えた。
 しかし、これまでに受けた痛みが、過度の期待が生み出すであろうそれ以上の痛みを予感させて。

「本当に…?」

 そう確かめずにはいられなかった。
 刹那、顔を伏せようとしたアンティに彼は手を伸ばす。
「アンティ」
 逃げないでくれ、と切実に思う。
 彼は伸ばした手を頬から頤にかけて添えて自分の方に向けた。その指に赤く染まった肌のいつになく高い体温が伝わる。
 ただ、伏せられた目は長い睫毛に隠されて見えなかった。
「…ごめんなさい。コントロル」
「アンティ…?」
「私…間違えたの。あなたは時々、私のココロを混乱させて、だから私はイライラしてあなたのコトを嫌いだと思ったの」
 小さな声での告白はとても重要なモノのようで。
 そこにある言葉の意味を聞き違えないようにと、コントロルは耳を澄ませた。
「でもそうではなかったのだと、さっき気づいたの。だから、もし…もし、あなたの私への愛想が尽き果ててしまってないのなら、データの消去はしないでほしいの」
 無理なら……仕方ないけれど、と自嘲気味な笑みを唇にのせて言う。
 それはコントロルにとってとても重要で、大切な内容を含んでいた。
 うれしくてうれしくて、思わず踊り出してしまいそうな、そんな衝動を感じる。
 それでも、彼が一番に欲しかったものがナイ。
「アンティ、俺を見てくれないか」
 コントロルはアンティが己の感情を隠し、表面上に施す装いが長けているのをよく理解していた。彼女の笑顔も視線も、そして、今この時でさえ、すべてが作り物である可能性は皆無ではないのだ。
 そうと知っていても、今、そんなコトは彼にとってどうでも良かった。
 そんな邪推からではなく、ただ、アンティの瞳が見たかった。
「俺の方を見てくれ、アンティ」
「コントロル…」
 ためらいがちに、それでも求められるままにアンティは澄んだ紫水晶の瞳をコントロルに向ける。
 綺麗な瞳。
 その瞳を見るのが彼は好きだった。
「もう一度言ってくれないか」
 聡明で賢いその人にはそれ以上の言葉がなくても大丈夫と思うからこそ、『何を』とは言わない。
 そうして言わずとも理解したアンティは頬を朱色に染めながらも、軽く息を吸い、落ち着きを取り戻そうとするかのように胸に手を当てた。そんな彼女の様子がまたコントロルは好きだった。


「私はあなたが世界で一番好きなの」


 吸い込んだ息のわりには小さな声はしかし、ちゃんとコントロルに届いていた。
 とても単純でありながら、何より重要な言葉は、今度こそ彼の中にあった疑念も傷つくことへの恐れも、悲しみもすべてを消し去る威力を持って響いた。
 そして、温かな想いが胸に溢れる。


「俺も君が世界で一番好きなんだ」


 言って、彼はアンティを抱きしめた。
 力いっぱい抱きしめても、彼女は文句を言わなかった。
 代わりに「それはもう聞いたわ」と呟き、ふいと背けた顔の赤さにコントロルは破顔しながら理解した。


 これこそがきっと本当の------『幸せ』のカタチ。

 END (/back)