「私と『キス』というものをしてみませんか?」

 挑発的な視線と共に告げられた一つの提案。
 正直なところ、意外するぎ内容にアンティも少し驚いた。
 ただし、親しい人間同士が…つまりは恋人同士がするというその行為に対しては特に何も感じることはなかった。
『ウィルスとキスをする』
 それは彼女にとって、その辺にある物体に唇を触れることとほとんど代わりがないように思えたのだ。
 ただ…
「どうして?」
 どうしてそんなコトをする必要があるのか、とそれだけが理解できない。
 しかも、仮にそうしたところでどんな未来が待っているのか、この時のアンティには予測することができなかった。
 なのに、ウィルスはといえば、『やってみればわかりますよ』とばかりに意地の悪い笑みを見せるだけで問いに答えようという素振りは見せない。
 物事の先を読んで行動するコトを得意とする点で、アンティとウィルスの思考回路は似通っていた。アンティもそうと知っているからこそ、相手の考えが読み取れない今、戸惑いを覚えながらもその原因を考える。
 そう、ウィルスの考えが理解できないのは単に『持ち合わせた情報量が違うため』か『彼との思考回路が微妙に違うため』かもしれない。そうでなければ、『自分の思考回路が不調であるため』に彼と同じモノを見つけられないというコトになる。
 そして、もし最後の原因がそうなのであれば、それは許しがたいコトに思えた。
 いつもならわかるハズのことが、わからない。
 未来予測の能力を持たないくせに、先を読んで自分の前を行く者が存在する。
 それはアンティ自身のプライドと共に存在意義をも揺るがす事態だった。
 だから、答える。

「いいわ。あなたの言う実験に付き合うわ」

 キスひとつで何がわかるというのかしら?
 それは理解できないけれど、試すくらいはいいだろうと思う。
 頷くアンティにウィルスは『それでは』というように、その手を彼女の頬に添えた。
 男性形態のわりに細くてしなやかな指はコンピューターを操作し、キーを打つのにとても適切な造りのよう。こんな時くらいサイバースコープを外してもいいんじゃないかしら、とそんなことをアンティはふと思う。
 俗に言う”ドキドキする”ような心理状態ではなかった。
 やはりプログラムソフトであるぶん、人間とは感覚が違うコトもあるのだろう。
 それとも…
『それとも、何?』
 まさか…相手がウィルスだから何も感じないだけ、とか?
『もし、相手が…別の誰かだったら……違う?』
 その瞬間、思い浮かんだ相手の顔に、アンティは頬がカッと熱くなるのを感じた。
 と、同時に胸の鼓動がいきなり早くなる。
『…ッ!』
 しかし、そうなる理由までは考える時間がなかった。
『あ…唇が、』
 あとほんの少しで触れる。
 意識が思考よりも現実に引き戻された、その時、


「ダメだあああーーーッ!!」


 いきなり響いた叫び声と痛みに、アンティは目を見開いた。
 何が起きたのか、気づけば、視界をふさがれた状態になっていた彼女にはわからなかった。上半身が圧迫されてひどく息苦しい。
 心臓の鼓動が嫌になるくらい早くて、体温が高い。
『…ちがう、わ』
 そう、違った。
 耳に伝わる鼓動はアンティのものではなかった。
 高い体温もその鼓動も、すぐそばにいる…いや、どうやら自分を強く抱きしめている相手のものらしいと気づく。

「アンティとキスなんて、俺が許さないッ」

 なにやら聞いている方が恥ずかしくなるようなコトを叫んでいる。
 声からして、考えられる相手は一人しかいなかった。

「たかがキスのひとつやふたつで、うるさいですよ。コントロル」
「たかがじゃないっ」
「それに『許さない』と言われても、あなたに許可していただくことじゃないですし」
「うるさい、うるさいーっ」
「うるさいのはあなたです。音声の出力機能が壊れたんですか?」
「俺は正常だっ!」
「いえ、いくつか壊れているみたいですよ」
「壊れてないッ」
「ではお聞きしますが…あなた、アンティのこと、どう思ってるんです?」

『え…?』
 ドキリとする。
 まさに不意打ちだった。
 予測する間も余裕も、今の彼女にはなかった。
 そんな彼女の頭の上で、なにも考えていないような大声が、響いた。


「世界で一番好きだーっ!!」


 同時にぎゅううっと抱きしめる腕の強さが増す。
 そのバカ力にアンティは息が詰まり、意識さえ遠のきかけた。
『本当に、バカとしか言いようがない男だわ…』
 短絡的で衝動的。
 コムネットを守るプログラムソフトにしては、本当に短所が多すぎると思う。
 しかし、改めて気づいたコトが一つあった。

『でも…』

 嫌じゃない。
 この気持ちは”不愉快”とかそういうモノではない。
 それどころか、この胸の奥が熱くなるような感情はもっと別のモノ…。
 そうと感じた瞬間に『答え』は一瞬にして彼女の中で弾き出されてしまった。
 これまで迷いや戸惑いを生み出し、自分を苦しめていたすべての元凶が何だったのかを思い知る。

『まいったわね…』

 自分の性質の一つでもある『聡さ』に少し嫌気がさした。
 できれば…気づきたくなかった、かもしれない。
 だからこそ、自分は今の今まで気づかなかったのだということまで悟ってしまう。
 しかし、すべてがわかったのだから、またいつもの冷静さを取り戻そうと彼女は試みた。

 が。

 整える端から崩れそうな『冷静さ』と。
 上昇するばかりの頬の熱に、アンティはどうしたものかと焦ることしかできなかった。 


 たぶん、人間たちが使う『キレる』という感じ。
 それがこういうコトなんだろうなあ、とコントロルは後になって思った。

「そんなに力を入れるとアンティが潰れますよ」

 そう言われて初めて、コントロルは我に返った。
 反射的に腕の力を抜き、慌ててアンティを覗き込む。
「だ、大丈夫かっ!?アンティ」
「…っ」
 瞬間、平手をくらった彼は愕然と立ちつくした。
「アンティ…」
 そんなに苦しかったのだろうか。
 よっぽど怒らせてしまったのかと焦るコントロルをちらりと顧みることもなく、アンティはくるりと彼に背を向けて、ウィルスの方へと向き直る。
 だから、コントロルにはアンティの顔を見て、そこにある感情を確かめることができなかった。それでも、目の前にあるほっそりとした背中から強い拒絶のオーラを感じて、身動きできなくなる。
 そうして、つい先ほど自分が言ったばかりのセリフの数々や行動を思い返してイロイロな問題にすうっと顔から血の気が引くのを感じた。
「イイ顔をしてますね。アンティ」
「…っ!ウィルス、あなたの方こそ男前が上がったのではなくて?」
 強い口調の返事に低く笑って、ウィルスが左頬についたアザを手で軽く押さえる。
 青白い肌にくっきりと浮かび上がる青黒いアザ。
 プログラムソフトでありながら、どうしてこうも造りが人間そのものなのだろう…とそのアザを作った張本人であるコントロルは思わず目を反らした。
 超至近距離にあったアンティを取り戻すついでに勢いで殴り飛ばしてしまったのだが、どうにもサイバースコープの下から射殺しそうな目で睨まれているようで居たたまれない。
 しかし、ウィルスはいつものように眉間にシワを寄せただけだった。
 痛みも相応にあるだろうと思えたが、彼はそういうことを表に出しもせず、ただ少し意地の悪い笑みを口の端に浮かべて聞いた。
「それで?」
「………」
「答えは出ましたか?アンティ」
「………っ」
 とても短く、簡単な問い。
 なのに、ぐっと緊張感が増した空間に沈黙がつらい。
『答え…?』
 なんの話だか、コントロルにはさっぱりわからない。
 わかるのは目に見えることだけだ。いつも冷静で落ち着き払った態度でいるアンティがぎゅっと手を握りしめ、返答に詰まっている。
 ほんの少しだが珍しく取り乱しているようだとコントロルも気づいた。
 そして、ウィルスの笑みに混じる意地悪さがまた少し増したのを見つけた。
「わからなかったというなら、いくつか可能性のある答えを私が言って…」
「ウィルスッ!!」
 制止をかけるようにアンティが噛み付くように名を呼ぶ。
 何がどうなっているのだか説明を求めたいところだが、そういう雰囲気でないためにコントロルは独りで狼狽えるばかりだ。
 ゆっくり呼吸を整え、努めて静かな声で言うアンティの言葉が室内に響く。
「いつから?…いつからわかっていたの?ウィルス」
 対するウィルスが面白そうに笑う。
 こんな顔もするのか、とコントロルが思うくらいには珍しく悪意のない笑みだった。
「言ったでしょう?アンティ。未知の領域に対して、確定できるモノはないと。その代わりにある程度可能性のあるコトなら、いくつか想定できます。結果として、あなたの選んだものとその可能性の中の一つが同じだったにすぎません」
「それを私に教えようとは思わなかった?」
「どうせ言っても、否定したでしょう?」
「………」
 沈黙は肯定になる。
 アンティは何か言い返そうとしたが、諦めるように息をついた。
 そんな彼女の様子をじっと見ていたウィルスは、軽く首を傾げて問う。
「ところで私の研究レポートの結末についでですが、このまま観察続行で構いませんか?」
「…っ」
「どうでしょう?」
「ウィルス…あなたの研究者としての資質は理解してるけれど、怒るわよ」
 苛立ちを隠しきれない声に、
「でしょうね。不本意ですが退散してあげましょう。そうそう、部屋の片づけ、ついでにしていってくださいね」
 驚くほどにあっさり答え、ウィルスはそのまま研究室の出口へと足を向ける。
 つまりはこれからアンティと二人きりに取り残されるのだ!と気づいたコントロルはとっさにウィルスを引き留めたい衝動にかられたが、そんなことができるハズもない。
 ひたすら青ざめ、引きつる彼には結局、一瞥もくれることなく、戸口で振り返ったウィルスは最後に小さく笑って、


「だから、『逆説』だと言ったんですよ」


 とだけ言って、姿を消したのだった。
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