胸が、ざわめく。
 強く弱く、早く遅くとめまぐるしく変化する自らの鼓動にコントロルは吐き気にも近い不快感を覚えた。

「どういうコトなのかきちんと説明してもらいましょうか?」

 耳に飛び込んできたアンティの声。
 ほんのすぐそばに近づいた気配に感じたのは『絶望』と呼ぶに相応しい感覚だった。
『知られたくない』
 自分が何をしようと思ったのか。
 自分が何を願っているのか。
 それだけは今、彼女に知られたくなかった。
 選んだ方法が正しいものと信じてはいても、それは彼女から逃げることに等しいのだとわかっていたから、そんな自分の弱さを彼女にだけは悟られたくなかった。
 彼女に軽蔑されるのは嫌だった。
 そして、「その選択は正解ね」などと褒められるのもまた耐え難いことだった。
『データを消去していたなら…』
 そう、アンティにまつわる記憶も想いもすべて消去した後なら、彼がこんな想いを味わうこともなかっただろう。
 しかし、今のコントロルはただただ痛みを甘受するよりない。逃げるどころか、まったく動くことすらかなわない機能停止の状態に彼は泣きたいような気持ちだった。
 その一方で、
『俺のことを心配してくれてるのか…?アンティ』
 わずかに焦りを感じさせた声と。
 自分に向けられていると感じる視線に。
 淡く期待めいたことを思ってしまうのは愚かだろうか、と思う。

「おや、確認、しないのですか?…アンティ」
「ウィルス…?」

 ほんのすぐ近くから聞こえてくる二つの声。
 その一つから、明らかに事態を面白がっている響きを感じ取り、コントロルは内心、眉を顰める思いがした。
 研究者という性質の強いウィルスは己の探求心に従う結果、誰に対しても遠慮や配慮といったものが欠けている時が多々あった。そして、この時の言葉にも彼特有の意地の悪い小さなトゲが端々に紛れ込んでいる気がして、
『まさか、アンティに何かするつもりじゃないだろうな!?』
 新たに生まれた疑惑にコントロルはドキリとした。
 こんなところで目覚めるなんて言語道断。
 しかし、二人がどのような状態にあるのかわからないもどかしさに、胸の奥にくすぶるような苛立ちを感じる。
 そんな風に様々な想いに乱れる彼のココロはしかし、続く言葉に凍り付く。

「どうせなら、このままにしておいてもらいましょうか。静かな方が作業がしやすくて助かります」

 感情に乏しく、淡々と響く声。
 『作業』という言葉はウィルスにとって日常茶飯時のものであり、またそれがどんなコトを指し示すのかを漠然とだが知らしめるものだった。
 しかも彼は事態をほのめかすだけに止まらず、コントロルが最も恐れていたコトまでもあっさり白状してみせたのだ。


「あなたのデータを彼の中から消去するんですよ」

 と。
 耳に届いた言葉にコントロルは頭の中が真っ白になった気がした。
 『なんですって…?』
 『ええ、だから、コントロルの記録データからあなたに関するモノを消去するんですよ』
 『…ッ』
 『どうしてか、とは聞かないんですか?アンティ』
 『ウィ…』
 『これはコントロルからの依頼です』

 どこか遠いところで交わされているように感じる会話。
 知覚することを遮断し、理解することを拒絶しようとしながらも、すべてを拒みきれなかったコントロルはぼやけた感覚の中でそれを受け止めた。
 しかし。

「良かったではないですか、アンティ。
 これでもうコントロルに付きまとわれ、あなたが不快な思いをするコトもなくなるでしょう」

 この言葉の鋭い刃には、否応なしに意識が切り裂かれた。
 胸の奥が痛くて痛くて…どうにもならない。
「でも…」
 ためらうようなアンティの声。
 それはウィルスの言葉を肯定するものではない…が、完全に否定するものでもなかった。
 その事実に、コントロルの胸はまた痛んだ。
「でも?何を迷うことがあるというんです?アンティ」
「私はただ…。私、は…」
 未来予測の能力を持ったアンティ。
 聡明な彼女は「一つのデータを消去した後の未来」さえ、きっと既に知っているに違いなかった。そのうえで答えに迷っているのだとしたら…
『…?どうして迷うんだ…?』
 未来の結果を知っていて、それの正否を出すことは容易いように思えた。
 だから、コントロルにはアンティが返答に迷う理由がわからなかった。
 そうして黙り込んでしまったアンティにウィルスは「思いのほか、往生際の悪い人ですね」と一つため息をついて、こう言った。

「ちょうどいい機会です。実験をしてみませんか?」

『……ッ!!』
 その時、コントロルの思考回路をどんな想像が駆けめぐったかは筆舌に尽くしがたい。
 が、『ウィルス』+『実験』という組み合わせに不吉すぎるモノを感じたのは確かだ。
 なんてオソロシイ、と彼は反射的に思った。ウィルスとの実験なんてモノに関わろうなんて正気の沙汰ではない。
 それこそ至極当然の感覚による判断だと信じていたコントロルは、
「…わかったわ。私に何かお手伝いすることがあるかしら」
 という、アンティの返事にココロの中で悲鳴を上げた。
『なんだとおおーーーッ』
 我が意を得たり、とばかりにニヤリと笑うウィルスの顔が脳裏を過ぎり、ゾッとする。
 そして、ウィルス、実験、+アンティ…という3つの単語がまるで危険信号が点滅しているかのように頭の中をぐるぐると駆けめぐる。
 しかし、相も変わらずウィルスの声は淡々と続き、応じるアンティも冷静だった。
「なに、別にたいしたコトではありません。あなたはそこにじっとしていてくだされば、十分です」
「それでどうするの?」

「ええ、私と『キス』というものをしてみませんか?」

「…キス?」
「そうです。親しい人間同士がするという『接吻』『口づけ』『キス』と俗に言われる行為です」
「それは知っているわ。でも、どうして?」
 どう聞いても、アンティの声は冷静極まりなかった。
 突拍子もない提案だとコントロルは思うのだが、当の本人たちはごく自然な情報交換程度の口調で話を続けている。
 その様子も手伝って、焦りから彼の中では『ちょっと待て、ちょっと待て、ちょっと待てーッ』と同じ言葉がエンドレスに繰り返された。
「どうしてと言われても説明するのが大変難しいのですが…まあ、やってみれば、あなたの抱えた問題が解消する確率99パーセント、という感じでしょうかね」
「本当…?」
「確定ではありませんが、別にキスひとつくらいなら構わないのでは?」
「そうね…別にキスくらいはかまわないのだけど」

『ちょっと待て!』

 アンティとウィルスの間では特になんの感慨もなく交わされている単語であったが、コントロルとしては「かまわない」なんて次元のモノでは決してなかった。
『俺はかまうぞッ!!ア、アンティが…ウ、ウィルスと……って』 
 考えるだけでも、これ以上ないくらいの限界を感じる。
『待て待て、ちょっと待てーッ』
 動けないから止めるコトができない。
 …というより、これは合意の上の行為ということで。
 自分には止める権利などないのだし、止めるなんて野暮という状況なのでは。
 いやしかし、こんな意味があるのかどうかもよくわからない実験なんて止めてOKなのではないだろうか?…というか、むしろ止めろ?
 でも。
 合意の上なのに邪魔をしてはアンティに怒られるかもしれないし、ますます嫌われるかもしれない…。
 ぐるぐる堂々巡りをする思考にコントロルは頭の中がショートしそうになった。
 が、ここで壊れるわけにはいかないのも確かだった!

『ちょっと待て、俺!』

 コントロルは深呼吸する気持ちで、ヒートアップしそうな思考回路に待ったをかけた。
 このままではダメだし、どうにもならないのだということだけは感じていた。
 努めて鼓動を押さえて冷静さを取り戻そうと試みる。
『うん、大丈夫だ!賢いアンティがウィルスなんかの怪しげな手にのるわけないじゃないか!馬鹿な心配しちまったぜ』
 自分自身を勇気づけようとしたカラ元気も、しかし、続く一言に見事砕け散る。


「いいわ。あなたの言う実験に付き合うわ」

 コントロルはアンティのような未来予測能力を持たない。
 しかし、この時、彼はこれから起こるであろう光景をまざまざと脳裏に思い描くことができた。

 その瞬間。

 残り少なかった彼の理性を司るプログラムは吹き飛んだのだった。
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