午前10時55分。
 ちょうど『占いの館』が開店する5分前、その館の主であるアンティはいつも等身大の鏡の前に自分の姿を映し込む。
 髪や服装に乱れがないことを確かめ、そして、自分自身に向かって微笑みかける。
 その自信に満ちた微笑みは見る者を惹きつけると同時に、強い信頼感を抱かせる。
 それは未来を視る占い師としては必要不可欠のモノだった。
 なぜなら、もし仮に悪い未来を視てしまっても、占い師はそうならないための忠告を与えることができるのだから。
 この時、相手に不安感を与えるような表情を見せるわけにはいかない。
 逆に相手の不安を消し去り、安心感を与えられるだけの『顔』を持たなければならなかった。
 だから彼女は毎朝、微笑みを作る練習を欠かさない。
 自分の瞳の中に不安定な気持ちが一欠片も紛れ込まないように練習する。
 しかし。
「ダメだわ…」
 呟き、アンティは綺麗に口紅が引かれた唇を噛んだ。
 もう一度、覗き込んだ鏡に映る彼女の瞳は隠しようがないくらい不安定な感情の揺れを感じさせるものだった。
 館の扉にかけられた『CLOSE』の札が定休日の今日、かけ直されることはない。
 それでもいつもの練習を繰り返してしまうのはもうそうすることが日課となっていたためと、もう一つ、この後に訪れる予定のためだった。
「ごめんなさい、コントロル。私はあなたのことが嫌いなの。だから、コレクターとしての仕事以外ではもう私に関わらないでちょうだい」
 まるで台本を棒読みしているかのように抑揚のない声だった。
 そんな自分自身の声と言葉を聞きながら、アンティは絶望的な眼差しを鏡の中の自分に向ける。
 秘かに用意し、練習してきた言葉はなぜかやけに虚しく響いた。
「あと3分…」
 11時にと約束していたコントロルがやってくるまでに残された時間はあとわずか。
 それでも、いつものように落ち着いた微笑みと口調で応じられれば、たぶん大丈夫。
 そう胸の内で繰り返し、彼女は浅く笑った。
『いつものように…?』
 それがどんなものであったのか、今の彼女にはわからなくなっていた。
 微笑む唇の上がり加減や相手を見つめる視線の強さetc..。
 いつものモノを模倣しているつもりなのに、鏡の中の自分はいつもと同じではないように見えた。なのにどこが悪いのか、彼女には判別がつかない。
 ただ漠然と感じる違和感に焦りと苛立ちが募り、混乱しかける。
 それは誰に対する時よりも強く、深く、不愉快なココロのざわめきだった。
 慣れない精神的な圧迫と疲労に彼女はこれ以上の思考をスッパリと切り捨てる。
 考えることにも悩むことにも疲れていた。
 そんなことを自分に強いるコントロルという存在に、八つ当たりとわかっていながら腹立ちを覚える。
 彼女は占い師という他者の悩みに対して相談役的な役割を果たしながら、意外にも自分自身のコトに対して不器用だったかもしれない。


 午前11時。
 約束の時間どおりにドアのチャイムが鳴り響く。
 最後にもう一度、鏡の中を覗き込み、アンティは服装と髪をチェックした。
 しかし、それだけ確認すると鏡が跳ね返す自らの視線を避けるように彼女は扉へと目を転じる。
 その瞳の色は静かではあったが、穏やかというには異なっていた。
 そうとわかっているから彼女はもう鏡を振り返らない。
 そんな自分の姿が彼女は誰よりも……そう、コントロルよりも、嫌いだった。 


 午前10時50分。
 真っ白なバラの花束を抱え、丘の上に立つコントロルは静かな眼差しで少し離れた場所に建つ『占いの館』を見つめていた。
 その瞳は熱血漢混じりに輝くいつものモノとは違い、暗く沈んでいる。
 真剣で思慮深い…という形容が相応しい面差しを仲間が見たなら、また少しちがった評価を彼は受けていたことだろう。
 しかし、彼はそんな姿を誰に見せることもよしとはしなかった。
 ただの愚かな道化が一番自分らしい姿だと思っているから、誰かに知ってほしいとも思わない。 
「今日はお招きにあずかり光栄だよ、アンティ。大事な話と言ったが、とうとう俺への愛に目覚めてくれたのかな?」
 他に誰もいない丘の上、明るい口調で言葉を紡ぐ。
 アンティの言った”大事な話”というのが特別な意味を持つことに、彼はなんとなく気づいていた。
 だからこそ不安もあったが、少し芝居がかった声のトーンはうまくその感情を包み隠していつもどおりに道化のスパイスを効かせている。
「…問題ナシ、だな」
 美しいバラを見下ろす彼の口元にふっと自嘲の笑みが浮かぶ。
『問題はないだって…?』
 自分自身が出したその結論が可笑しかった。
 そして、こんな時にまで道化ることのできる自分を『さすがだ』と誉めると同時に彼は激しく嫌悪した。


 午前11時。
 約束の時間通りにドアのチャイムを鳴らす。
 開いた扉の向こうから現れたアンティがいつもどおりに艶やかな微笑みと、そして、凍えた瞳で彼を出迎える。
 それに気づかぬフリで彼は用意していた言葉と一緒に花束を差し出す。
 アンティに一番似合うのは赤いバラだが、高潔な雰囲気を持つ白バラもまた彼女には良く似合った。
 しなやかな腕に花束を受け取り、彼女は言う。
「ありがとう、コントロル。でも、こういう花束はこれで最期にしてもらえるかしら」
 魅惑的な微笑みが崩れることはない。
 ただ美しく澄んだ瞳が挑むように強く、鋭くコントロルを見返していた。
 しかし、彼は言っている意味がわからないな、というように肩をすくめてみせた。
「こういう花束って?」
 するとアンティの顔からは笑みが消え、真剣な表情とコントロルを責めるような眼差しだけが残された。
「もうわかっているのでしょう?私はあなたのことが嫌いなの。だから、コレクターとしての仕事以外ではもう私に関わらないでちょうだい」 
 拒絶を含んだ固い声だった。
 そんな彼女の姿をコントロルはじっと見返していた。
 そして、そのほんの数秒の間に明快な答えを彼は自分の内に見つけだす。
「そうか」
 応える声は彼が予想していたモノよりずいぶん落ち着いたものだった。
「俺がいい男すぎて気後れさせてしまったみたいだな、アンティ」
「なっ…」
 ニヤリと笑って返すとアンティの頬にカッと血がのぼる。
 しかし、彼女が憤然と抗議しはじめる前に彼は早くも館の外に逃がれていた。
 下りの階段に足をかけた状態で半身だけ振り返り、憮然とした面持ちのアンティを見上げる。
「悪かったな。アンティ」
 明るく元気良く響く大声で言い置き、彼は占いネットから姿を消す。
 最後の最後まで、ほんとうにギリギリまで見つけることができなかった…いや、見つけてしまうのが嫌だった『答え』。
 それは本当に単純明快な事実に基づくモノだった。
 アンティからどう思われていようと彼自身の中にある気持ちは色あせることなく。
 そして、もう一つ、彼女にあんな顔はもうさせたくないと強く思った。
 ならば、自分の取るべき道は一つではないだろうか?
 彼は迷うことなく、自らの行き先を決めた。 
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