どくん、どくんと胸の鼓動が響く。
 ただのプログラムソフトでありながら、あらゆる点を人間に近づけて構築された彼女の体はその反応もヒトの肉体に酷似していた。
 その事実に強い反発を覚えながら、彼女は店の奥にある鏡の前にもう一度立った。
 楽しい事柄に自然と微笑むことができるのはうれしい。
 悲しい出来事に涙が流れるのもごく自然なことだと受け止められる。
 怒りを表すのは時々みっともなくてイヤになるけれど、それとて必要な感情の表れ。
 ただ。
 ただ、今のこの感情は…。
『なんなの…?』
 鏡に映る自分の瞳の奥を覗き込み、彼女は自問する。
 見返す瞳は今にも泣き出しそうに震えているように見えた。
『どうして?』
 どうしてこんな目を。
 どうしてこんな顔を私はしているのかしら?
 正しいコトをしたハズなのに…。


『私はあなたのことが嫌いなの。
 だから、コレクターとしての仕事以外ではもう私に関わらないでちょうだい』


 いつもいつも会うたびイライラする相手にぶつけた冷たい言葉。
 しかしそれは嘘ではなく、本心から出た言葉だ。
 なのに私は…。
『後悔している…?』
 どうして?
 あの言葉で相手を傷つけてしまったから?
 いいえ、と彼女は首を振った。
 彼はあんな言葉くらいでは傷ついてなどいなかった。
 自分の必死の覚悟が愚かしく思えるほどに、彼は呆気なく「そうか」と応えて茶化してさえみせたではないか。
 少なくとも、表面上はまったくなんとも思っていないように見えた。
 その事実に。
『傷ついたのは私…』
 私の本気の気持ちを貴方は本当にわかってる?
 適当に受け流してない?
 それとも。
 今まで私につきまとっていたのはただの軽い気まぐれだったの?
 たいしたコトではなかったと…そういうことなのね?
『そうか』
『悪かったな』
 いつもの気さくな口調でそんな風に言われただけでは何もわからない。
 貴方が何をどう考えているのか、わからない。
 でも。
 もう、そのことについてはわからなくてもいいと彼女は思った。
 これ以上、コントロルのことで余計なコトを考えたくはなかったから。
 そうしてすべてを無視してしまおうと努力しているのに、いつまでも静まらない胸のざわめきが不安な気持ちをかき立てた。
『これは正しい選択、でしょう?』
 状況を変えるためにどうしても必要だった一つの段階。
 それさえ済ますことができれば、何か答えが見つかると思っていた。
 良くも悪くも答えさえ見つかれば、少しはスッキリした気持ちになれると思っていた。
 なのに。
 あるのは想像していたそんな気持ちとはほど遠いココロの惑いだけ。
『まさか…』
 まさか、と考えたくもないもう一つの応えを彼女は震える瞳に問いかける。
『私は間違ったというの…?』
 そんなハズはないと思う。
 これが最良の方法だったのだから。
 でも。
 もし、間違いがあったとしたなら…………それは『何』?
 未来を見通すハズの瞳で自分のココロの奥を探るようにじっと鏡を見つめる。
 欲しい答えは手の届かない果てにあるようでいて、それでいてなぜかすぐ近くにあるようだった。
 知りたいけれど。
 知りたくない。
 矛盾した想いが彼女のココロにさざ波を立てる。
『どうして、知りたくないと思うのかしら…?』
 ふとそれがこの問題を解く大きな鍵になるような気がした。
 
 
 しかし。

「開けてくださいっ!!アンティさん」
 どんどんと乱暴に扉を叩く音と切羽詰まった声に彼女の集中力は破られた。
 非常事態と思える様子に彼女はすぐさま気持ちを入れ替え、扉へと向かう。
『いったい何事なの?』
 扉を叩く音が途切れることなく続く。
 その状況に、束の間とはいえココロの問題から離れられたことにかすかな安堵を抱きつつ、彼女は扉を開けた。
 求める答えは手が届く前に再びココロの片隅に消え、そうして代わりに現れたのは大粒の涙をぼろぼろこぼす金髪の少女だった。


『さすがにイタイな…』
 誰の目にも留まることのない時の流れの中で、彼は胸を押さえた。
 ずきん、ずきんと鼓動にあわせて生まれる痛み。
 自分はただのプログラムソフトだというのに、こうした痛みはどこからやってくるのだろうと不思議に思う。


『私はあなたのことが嫌いなの。
 だから、コレクターとしての仕事以外ではもう私に関わらないでちょうだい』


 告げられた言葉は、彼があらかじめ予想していたものとそう変わらなかった。
 いつか彼女の拒絶がそうしたカタチになるとわかっていたから、覚悟はできているつもりだった。
 それでも。
 深く胸の奥が痛んだ。
 本当は絶対に聞きたくはない言葉だった。
 なのに。
 これでよかったんだと安堵する気持ちがあるのも事実。
『間違いだった…』
 自分の中にあるこの感情。
 冷たく拒絶されても、消え失せることのないこの想い。

 アンティにとっての負荷。

 それはつまり、存在すべきでないモノなのだと彼はようやく理解した。
 いや、正しくは理解し、納得したくなくて目を背けて誤魔化し続けるという行為をようやく止めることができたのだ。
 すべてはアンティのあの言葉のおかげで。
『いたい、な…』
 胸と、そして、どこかわからないが”何か”が痛かった。
 でも。
 この想いさえなければ、こんな痛みも感じずにすむのだろうか?
 この余計な想いさえなければ、彼女に拒絶されるコトもなくなるだろうか?
 そして。
 彼女に…あんな顔をさせずにすむだろうか?
『そうなら、俺は…』
 この誤った『幸せ』を手放してもいい。
 それを実現させるために。
 今の決意を薄れさせないために。
 彼は己の持ち得る加速能力を最大限に発揮して道を急いだ。


 その時。

 途中で擦れ違った少女の様子がいつもと違うコトに気づけなかったのは、彼にとって人生最大に近い不幸だったにちがいない。
『さっきのは…レスキュー?』
 何か違和感を感じたが、それがなんであったのかはココロにゆとりのない彼にはわからなかった。そのまま、ようやくたどり着いた部屋の扉を勢いよく開ける。
 そして。
 目に飛び込んできたその場の光景に。
 彼は呆然と立ちつくすと同時に思わず己の死を覚悟した。
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