あと少しで唇と唇が触れ合う。
 それをどうすればいいのかわからなくて、カスミはその衝撃的な光景に目を見開く。
『ええと…これってマズイんじゃ』
 ないだろうか、と頭で理解するより先に亜麻色の髪が宙を舞っていた。
 そして、空気を切り裂くようにして走った閃光。
 それはただの光でなく、刃の描く軌跡だった。
「ビッキーっ!!」
 自分よりも閃光すれすれの場所にいた少女に、思わず息を呑む。
「ビッキー、大丈夫!?」
「ふえ?大丈夫ってなにが?カスミ」
 何が起こったのかわからないとばかりにまばたきして、ビッキー。
 いつもどおりの反応に、相手の無事を確認すると同時にカスミは体から力が抜けそうになった。しかし、
「なにをする!?」
 剣を構えてきつく問うフリックの声に彼女は体に力を入れ直す。
 キッと目を向けると、そこでは抜き身の刃を構えたバレリアがその切っ先を人形へと向けて立っていた。
 バレリア…それとも、やはり幽霊のアオイなのだろうか?
 炎の影さえちらつきそうな鋭い眼差しにぞくりとする。
「あれれ?キスするんじゃなかったの?」
 そんなビッキーの声にバレリアの頬がわずかに動いた。たったそれだけで、彼女の威圧感が増したように感じるのは気のせいだろうか?
 張りつめた空気に圧倒されるカスミの見つめる先で、きつく結ばれていた唇がゆっくりと言葉を刻む。
「アオイ殿、出ていっていただきたい」
 かすれているのに、毅然と響く声。
「バレリア…おめえなのか?」
 前髪の一部を剣で切り払われ、硬直していたビクトールが息を呑むのがカスミにもわかった。
「バレリアさん、なんですか?」
 問いかけに返事はなかった。ただ、
「出ていってくださらないなら、人形を壊します」
 人形にぴたりと剣を突きつけたまま、彼女は告げる。
 そこに小さな影が動いた。
「だめだよっ、バレリアさん」
「ビッキーっ!?」
 そう言って飛び出したビッキーは迷わず剣を持つバレリアの腕にしがみついた。その光景に誰もが目をむく。
「おばあちゃんの友達を壊しちゃダメだよっ!」
 瞬間、まるでギリギリのバランスを崩されたかのようにバレリアの腕が勢いよく跳ね上がった。それは今にもビッキーを傷つけそうなほど不安定な動きで−−−
「あ、あぶなっ…」
 カスミは喉の奥で声にならない悲鳴を上げた。
「−−−ッ」
「バレリアッ!!」
 しかし、勢いよくビッキーの顔面に振り下ろされた剣は、すんでのところでぴたりと止まっていた。
「んに?バレリアさん…?」
 そして、小さな小さなため息が凍りついていた時を震わせる。
「ほんにあぶなっかしい童よのう」
 相変わらずの鷹揚とした口調はしかし、バレリアの声ではなかった。驚いて目をむけると問題のひな人形がやれやれ、というように首を傾げるところだった。
 ということは…。
『元に戻ったの!?』
 そう思いながら再びバレリアへと視線を戻す。
 するとまるで凍りついたかのように動きを止めていたバレリアの腕は横に動き、剣を床に投げ捨てた。と同時に、ぐらりと傾いだ体。
「バレリアさん!?」
「バレリアっ」
 とっさに駆け寄ろうとした誰よりも早く、ビクトールがバレリアの体を抱きとめる。
「おいっ、大丈夫か?」
 真っ青な顔をして荒い呼吸を繰り返すバレリアはひどく苦しげに見えた。
 片腕でバレリアを抱きかかえ、もう一方の手で剣を構えるビクトールは怖いくらいに怒っていた。
「てめえっ!!バレリアに何しやがった!?アオイ」
 一触即発、本当に何が起こるかわからなくて、呆然と立ち尽くしたままのビッキーをカスミは少し離れたところへ引っ張り寄せる。
「バレリアさん…なんか変だよ、カスミ」
 ほんの数分前に斬り殺されそうになったコトなどすっかり忘れたかのように、ビッキーは心配そうな目をしてバレリアを見つめている。無茶ばかりする少女だが、こういうトコロが彼女を嫌いになれない理由なのかもしれない。
「…少しは落ち着け、ビクトール」
「うるせえっ!フリック」
 今にも噛みつかんばかりに怒鳴り返すビクトールにも頓着する様子はなく、人形は小さな白い手を額に当てた。
「そなた、ほんにうるさい男よのう」
「てっめえ…」
「言っておくが、わらわは何もしておらぬ」
 無理にわらわを肉体から追い出そうとしたゆえ、心と体に負担がかかっただけのこと。
「わらわを弾き出そうだなど、百年早いわ」
 そう言って、人形はころころと笑った。
「てめえなんぞは焼却炉に放り込んでやるっ!」
 つかみかかろうとしたビクトールを、しかし、人形は言葉で止める。
「そんなヒマはないと思うがのう。そのおなご、このままほうっておいては衰弱死するかもしれぬが」
「んだとおっ!?」
「嫌ならさっさと栄養補給して、ゆっくり休ませてやるがよい」
 ビクトールは腕の中でぐったりとしているバレリアをちらりと見下ろし、心底悔しげに舌打ちした。
「後でケリつけに来るから覚えてやがれっ」
 フリック、逃げねえようにしっかり見張ってろよ!
 了解を示すように片手を上げて応えるフリックを尻目に、バレリアを抱き上げ、あっという間に廊下の向こうに消え去るビクトール。
 その勢いにカスミは唖然とする。
「ビクトールさんって…走るのすごく早かったんですね」
「そりゃあ、愛ってヤツだろ。あいつの場合」
「あ、そ、そうですね」
 きわめて当然とばかりに告げられた言葉にカスミは顔を赤くした。面と向かって”愛”と言われるとなんだか気恥ずかしいような変な感じがする。
 でも、それだけビクトールに想われているバレリアをうらやましいな、と思うのだった。


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