そして、誰もが一度は理想の女性と憧れるような人はこう言う。
「昔話なんてしていたら、なんだか久しぶりに体を動かしてみたくなりましたわ」
 と。
 彼女はテンガアールの顔を覗き込んで涙の名残が消えたのを確認してから、部屋を出た。テンガアールの手を引いて廊下を歩いてゆく足取りは実に楽しげで。
「なにをしようかしら?」
 歌うような声にテンガアールは初めて不安を抱いた。
 目の前にいるのは物腰優雅で、穏やかな女性−−−というだけではないのかもしれない、という思いがより現実味をもって現れる。
「アイリーンさん…?」
 ぴたりと立ち止まったアイリーンはしぃっというように立てた人差し指を唇に当て、耳をそばだてた。
 ちょうど通り過ぎかけた窓の外から人の声が聞こえる。
「あら、あの人ですわ」
 アイリーンはにっこりうれしそうに笑って、窓の下を覗き込んだ。
 ちょうど砦の二階部分から連なる岩棚、カイ師範の修練場ともなるそこに彼女の夫レパントはいた。クントーと一緒に湖の先、帝都の方を指さしながらなにやら話し込んでいる。
 アイリーンはレパントを呼ぶように口を開きかけ、
「あっ」
 窓枠にかけていた手をずるりと滑らせた。華奢な体がそのまま窓の外へ飛び出す。
「アイリーンさんッッ!!」
 それはまさに不意打ちの、一瞬の出来事で。
 細く響く悲鳴にテンガアールの顔からは血の気が引いた。
 しかし、地面と激突するかと思われたアイリーンは難なくレパントの腕に抱き留められていて。
 テンガアールは虚脱感のあまり床に膝をついた。
「良かった…」
 呟き、ムッとする。
 これってぜんぜん良くなんかないじゃないか。
 心臓が止まるかと思うほどびっくりしたぞっ。
 あんなに不注意なんて、不注意なんて……ふ、ちゅうい…って…も、もしかして、
「わざと…?」
 アイリーンの邪気のない笑みを思い浮かべながら、『まさか』と思う。
 テンガアールは勢いよく立ち上がると一気に階下へと駆け下りた。
「大丈夫ですか?アイリーンさん」
「ケガ、ない?ない?」
「なにがあったんですか」
 周りを囲んだ人々が心配げにアイリーンに声をかけてる。当のアイリーンはというとひどいショックを受けたとばかりに夫に支えられ、弱々しげな微笑みを返すばかりだ。
 その様子にテンガアールの中にあった『まさか』という思いは吹き飛ぶ。が、
「ああっ、テンガアール。心配かけてごめんなさいね」
 小走りに駆け寄り、抱きしめてきたアイリーンの小さく震えた声。
 それは窓から落ちた恐怖や不安、後悔といった感情のためととれないコトもなかったが…。
『えっと…』
 この状況、楽しんでる…?
「ケガ、ない?」
「ええ、大丈夫ですわ。レパントが受け止めてくれましたから」
 そして、こっそり耳打ち。
「あの高さなら自分で着地もできましたけれどね」
「って、やっぱり…」
 ぼく、すっごく心配したんだぞッ。
 怒るテンガアールがそれ以上余計なことを言わないように、さらに強く抱きしめて。
「本当にごめんなさいね」
 アイリーンはいつもとなんら変わることない、しとやかな女性を演じてみせた。


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