それは”理性”という名の固い鎖がぶち切れた瞬間だった。
手袋の上でカサカサ走り回るゴキブリを凍えた瞳で見下ろすバレリアは、フリックでさえ思わず一歩離れたほど迫力があった。
彼女はゴキブリを床に叩き落とし、
「あの男はこんなモノまで飼っているのか」
抑揚のない声で言い捨てた。
ついで、床に叩きつけられながらもしぶとく生きのび、紙くずの下に逃げ込んだゴキブリを狙い違わずブーツで踏みつける。
一般に女性の天敵と言われる虫もバレリアにとっては”害虫”ただその一言に尽きた。
怖いとか気持ち悪いとかいう感情はない。
それでも生理的嫌悪感を抱くのはゴキブリが不衛生、不潔という事実の象徴だからだった。
そう、つまるところビクトールの部屋はゴキブリの住処となるほど汚かったわけで。
そのコトに彼女の口元に暗い笑みがゆらめく。
「フリック殿。雷を落としてもらえないか」
「え?」
「だから、ここに大きな雷を一発落として欲しい」
今度はにっこり笑ってバレリアは言ったが、その目がまったく笑っていないことにフリックも気づいていた。
「さすがにそれはマズイだろう」
相手をなるべく刺激しないように言葉を選ぶ。
解放軍の中でもかなり常識派に位置する彼女がこんなコトを言ってのけるのだ。かなり感情的になっている…というか、とうとうキレたか?とフリックは思った。
こういうふだん真面目なタイプはキレた時がやっかいなわけで。
「火事になりでもしたら大変だ」
「………こんな部屋、燃え落ちればいい」
ぼそりとこぼれた呟きにフリックは唇の端を引きつらせた。
しかし、キレてはいても常識のカケラはなんとか残っていたらしく、
「冗談だ、フリック殿」
そう言うとバレリアはくるりと踵を返した。
「バレリア?」
「すぐ戻る」
短く応えて足早に去ってゆく後ろ姿を見送り、フリックは盛大なため息をついた。
なんだか面倒なコトになりそうな雲行きだった。
「俺は知らないからな。ビクトール」
それでもヤツが最初に八つ当たりに来るのは自分の所なんだろうな、と。
彼はもう一度ため息をついた。
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