「雨…か」
 彼女はそっと吐息をついて、椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
 もうすぐ夕食の時間だというのに午後から始めた書類はまだ片づいていなかった。明日までに仕上げればいいと言われたが、早く済ませるに越したことはないだろう。
 そう思うのに、机の上で止まったままの手はなかなか言うことをきいてくれない。
 いつの間にか降り出した雨は彼女の心の中にも厚い雲を呼んだかのようだった。
「あの時の雨はもっとひどかったな」
 忘れることは…いや、忘れようとすることは罪だと。
 よくわかっているからこそ、逃げずに過去の記憶に立ち向かうことを己に課してきた。
 それでも苦しい気持ちを昇華できないのは自分自身の弱さに違いない。
『雨ごときで感傷的になるようではまだまだだな…』
 ドアをノックする音が聞こえ、彼女は素早く思考を切り替えた。
 意外な声が来訪を告げる。
「ビクトールか、なんの用だ?」
 どうせ仕事の伝令かなにかだろうと扉を開けて、彼女は思わず息を詰めた。
 青い…真っ青な色をしたワインボトル。
 それはまぎれもなく彼女が大切にしまいこんでいたワインと同じ物だった。
 早まる動悸に、彼女は知らず知らずのうちに胸元を手でつかんでいた。
「この間の詫びだ。バレリア」
 まるで怒っているようなぶっきらぼうな声と一緒に、青い瓶が目の前に差し出される。
「詫び…?…ああ」
 そんなコトをまだ気にしていたのか。この物覚えが悪そうな男にしては珍しい、とどこか麻痺した頭で彼女はぼんやりと思った。
 こうして差し出されたということは、受け取らなくてはいけないのだろうか?
 いや、『詫び』というからには受け取るべきなのだろう。
「わざわざ、すまないな」
 手を出して受け取らなくてはという思いとは裏腹に、ぴくりとも動かぬ手に彼女は唇を噛んだ。 
 数が少なくてなかなか手に入れるのが難しい酒だ。
 これを用意するのにはビクトールもかなり苦労したのではないだろうか。受け取ることこそが彼の労を労い、彼の詫びに応えたことになる。
 それにこの機会を逃せば、この酒を再び手に入れることは難しいだろう。
 欲しい。
 けれど、欲しくない。
 相反する感情の糸がギリギリに引き延ばされる。
「いらねえんなら、持って帰るぜ」
 じっと自分に注がれる視線に気づいて、彼女はふいと顔を反らした。
 私は今、どんな顔をしていたのだろう?
「手間をかけて悪いが、ついでに元あった場所に戻しておいてくれないか」
 そのまま背を向け、書類を広げたままの机へと戻る。
「急ぎの仕事を片づけている最中なんだ」
 椅子を引く音が彼女の耳にはひどく大きく響いた。
 平静を装い、羽ペンに手を伸ばす。が、震える白い羽は逆に彼女の動揺を煽った。
 部屋の扉が閉まる音がして、そして、戸棚を開ける音が続く。
 ガラスの触れ合う音。
『さっさと片づけて出て行ってくれ』
 強く強くそう願う。
 しかし、いつまで待ってもビクトールが部屋を出ていく気配はなかった。
「おい、何をしている?」
 イライラと振り返り、彼女はぎょっとした。
 石造りの床にあぐらをかいて座り込んだ男の手にはまだあのワインが握られていた。そして、もう片方の手にはコルクの栓抜きが。
「−−−−ッ!?」
 思わぬ成り行きに声も出ない彼女の目の前で、真新しい瓶の口からコルクが引き抜かれた。
 そして、やさしく色づいた液体が用意されていた二つのグラスに注がれるのを彼女はただただ呆然と見ていることしかできなかった。

 *

 なんとなく、嫌な予感は最初からしていた。
 律儀に鍵の閉まった扉を腹立たしく思いながらノックして。
 出てきた相手の顔を見た瞬間、その時にはもう後悔していた。
『なんてオレはバカなんだッ!!』
 食い入るようにワインボトルを見つめる瞳に喜びの色を見つけることはできなかった。
 苦しげにまたたく瞳はどこか怖れさえ抱いているようで。
 無くしてしまった物と同じ物を返せばそれで済むと思ったのは甘いとしか言いようがない。
 この酒は確かに相手にとって大切な…特別な代物なのは間違いないだろう。しかし、だからといってそれが楽しい気持ちを呼び起こすだけのものとはかぎらない。
 哀しい思い出の品というコトも有り得るのだ。
 ミルイヒの意味ありげな視線を思い出しながら彼は胸のうちで悪態をついた。
「わざわざ、すまないな」
 感情の消え失せた声で律儀に応えるバレリア。
 嫌なら嫌と、そう言って非難してくれたほうがまだマシだった。
「手間をかけて悪いが、ついでに元あった場所に戻しておいてくれないか」
 受け取る気などないくせにそんなコトを言うのは、自分への気遣いだろうか?
 それとも拒絶するにはやはりこの酒への未練が少しはあるのだろうか?
 言われるままに戸棚へと向かい、中を見てますます腹が立った。
 元あった場所ということはこの戸棚のさらに奥、のコトだ。
 表から見ただけじゃわからないところに転がしておくということは、やはり手をつける気がないのだろう。
 道化師のように愚かなコトをしている自分が心底腹立たしかった。
 そして、こんな目障りな代物がいつまでも存在するコト自体が許せない気が、した。
 今にも酒瓶を床に叩きつけそうになる衝動を彼はぐっと抑え、代わりに戸棚から栓抜きと2つのワイングラスを取り出す。 
「おい、何をしている?」
 振り返ったバレリアが驚愕したように顔を強ばらせるのが目に入ったが、止める気にはなれなかった。
 そのままいつものようにコルクの栓を抜き、甘い香りのする液体をグラスへ注ぐ。
「飲めよ」
 傍若無人なこの行いにバレリアは怒るだろうか。
 それとも、嘆くのだろうか。
『どっちにしろ、今よりはマシだぜ』
 彼は投げやりな気持ちでそう思ったのだ。



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