| ただ静かに声もなく。 音もなく。 頬を滑り落ちる透明な涙。 それを見て彼が戸惑うことはなかった。 ただ、予想していたとはいえ目にしたモノに胸の奥がずきりと痛んだ。 そして、それ以上に胃の辺りがむかむかして腹が立った。 「なんでおめえはそうなんだ。バレリア」 激しく勇ましい剣技と、常に冷静な判断力を下す強い精神とを兼ね備えた軍人。 そう、エルフの村で初めて見た時でさえ−−−それがたとえ虚勢の成果だったのだとしても、崩れることのない気丈さを彼女は持っていた。 しかし、目にしたことがないからといって彼女が弱さを持たない証になどならないコトはビクトールとて十二分に理解しているつもりだった。 弱さを持たぬ生き物はいないだろう。 そうとわかっていても、彼には今のバレリアがひどく許しがたい存在のように思えたのだ。 相手の愚行を怒るでもなく、罵るでもなく、ただただ呆然とワイングラスを見つめる瞳はなんて頼りなく、悲しげに見えるのだろうか。 『らしくねえ』 まったくもって潔いバレリアらしくない姿だと思う。 どうせ同じ悲しむなら、声をあげて喚いて外に吐き出してしまえばいい。 そうすれば少しは何かが違うだろうに。 『そんな簡単なコトもこいつはわからねえってのか!?』 「部屋を出ていってくれないか。ビクトール」 震えた声は押し殺した感情の激しさを雄弁に物語る。 表情を髪で隠すように背けられた顔を見やる視線が冷ややかなものと化すのを感じながら、ビクトールは自嘲の笑みを浮かべた。 『らしくねえ』 今度のそれは彼自身へと向けられたものだった。 不必要な深入りはたいがい面倒だと知っているから、他人は他人、自分は自分だと割り切って生きてきた。 それが解放軍に入ってから少しずつ変わってきていることに気づいてはいたが、相手がいい歳をした大人となれば自分で勝手にしやがれと思うのは変わらない。 なのに、単なる他人事、しかも余計な世話でしかない事に首を突っ込みかけている自分がいる。 『いや、コイツが出来たヤツだからこそ、こんなザマでいるのが許せねえのかもな』 湧き起こるのは相手を慰めようというやさしい気持ちではなく、なぜかひどく残酷な想い。 わざわざ意地の悪い行動を好んで選び取る自分自身をどこか不思議にさえ思いながら、彼は言う。 「それで?オレが出てった後、おめえはどうする気だ?」 こうして泣き続けるってわけか? それは紛れもなく嘲りを含んだ口調だった。 * グラスを満たす懐かしい色。 離れた場所にいてさえ、その香りを感じるように思える。 それは幸せだった過去と結び付き、そして同時に悲しい記憶をも鮮明に呼び起こすものだった。 「なんでおめえはそうなんだ。バレリア」 不機嫌そうな声に、彼女は改めて自分のほかに人がいたことを思い出す。 激しく揺れる感情に塗りつぶされて止まっていた思考がゆっくりと動き始め、その時初めて、彼女は自分が泣いていることに気づいた。 感情に捕らわれるまま人目も忘れて弱さをさらけ出した自分に唇を噛む。 そして、どうにも止まらない涙に、顔を背けることしかできない自分自身を呪わしく思った。 「部屋を出ていってくれないか。ビクトール」 声が震えぬように、それだけを願って振り絞るように言う。 別にこれはなんでもないのだと。 すぐさま笑って誤魔化すだけの強さをなぜ持てないのだろう。 「オレが出てった後、おめえはどうする気だ?こうして泣き続けるってわけか?」 ばかばかしいと、そんな言葉が聞こえるかの声に息苦しさを覚える。 「止まらないのだから仕方ないだろう」 泣きたいわけではない。 過ぎ去った時を悲しみたいわけでもない。 でも、胸が痛み、涙がこぼれるのをどうすることもできなかった。 「頼む。一人に…させてくれ」 これ以上、ぶざまな姿を見られたくなかった。 しかし、そんな願いとは裏腹に響く足音はゆっくりと彼女へと近づいてくる。 『なぜだ……なぜ、コイツは出ていかない?』 なぜ、私を追いつめる!? 近づく足音がまるで死刑執行人のモノであるかのような、そんな圧迫感に彼女は息を詰めた。 いつもの自分ならば、無神経に近づいてくる相手の足を蹴り払い、力づくで部屋の外に押し出すくらいはしているだろうに。 それだけの気力すら湧いてこない自分を情けなく思う。 ただ体を固くして、きつく目を閉じる以外にすべを持たない彼女のすぐそばで足音が止まる。 そして、カタンと小さな音。 「おめえ、バカじゃねえのか」 ほのかに香るのは果実酒の甘い香りだった。 「飲めよ」 短い言葉がなにより残酷に響く。 バレリアは何かを言おうとして−−−何をどう伝えるべきかわからず、空気を噛んだ。 「飲めよ」 もう一度、今度は前より強い口調がそう告げる。 バレリアは重い瞼をゆっくりと押し上げ、机上に置かれたワイングラスを見つけた。 「なぜだ…?」 『なぜ、コイツはこんなことをするのだろう』 そんなに私を苦しめたいのか。 「いいから飲めっつってんだろーがッ」 苛立った声が言う。 「飲まねえってんなら、このコト、言いふらすぜ」 「−−−−ッ」 『なんて卑劣な!』 胸が焦げるような屈辱を感じながら、彼女は震える指でグラスを掴んだ。 それはもしかしたら、彼女にとっては毒を飲むより勇気のいるコトだったかもしれない。 「うだうだ考えてねえで、飲め!」 ダン、と叩かれた机の音に押されるようにして、傾いたグラスから喉の奥へと酒が流れ込んだ。 「ッ」 喉を潤す程度のわずかなそれに喉が焼けつくような錯覚を抱く。 「うめえか?」 無遠慮な問いに、バレリアは力なく首を振った。 おいしいと思うどころか、味などまったくわからない。 ただ、涙腺が壊れたように溢れ出した涙を遮るように目を押さえる。 「じゃあ、もう一度飲めよ」 射るような視線に容赦のない言葉。 コイツは何が言いたいのだろうか。 飲み重ねれば、この酒を美味いと感じられるようになるとでも言うのか。 「…何度試しても同じだ」 「んなもん、試してみねえとわからねえだろーが」 「試す必要など…ない」 どうせ美味いと感じられるわけがないのだから。 確信するかのようにそう思うバレリアの顎が強い力で掴まれた。 「勝手に決めつけてんじゃねえ!」 そんな怒鳴り声と一緒に、グラスが唇へと押しつけられる。 顎を掴まれては逃げることもできず、勢いよく口の中へと流し込まれた液体に彼女はむせかえった。 なんとか飲み下し、激しく咳き込んむその苦しさに。 「どうだ?うまかったろうが」 憎々しい言葉に。 その瞬間、彼女は固くこぶしを握りしめていた。 悲しみを怒りにすり替えるのは卑怯な手段だとか、そんなコトがどうでもよくなるくらいには彼女の腹の中は怒りで煮えたぎっていた。 そして、勢いよく振り上げたこぶしの行く末に迷いなど微塵もなかった。 NEXT ・ BACK |