ヤツはめちゃくちゃ怒っていた。
 眉をつり上げた怒りの形相。今にもどつかれそうな勢いで横に立たれるっていうのは、あまり心臓にもよろしくない事態だ。
 しかし、その怒りを真正面で受け止めるバレリアはといえば、いつもどおり平然としている。
「おはよう。ビクトール」
 穏やかな口調で、少しだけ皮肉げに口の端を上げて朝の挨拶。
 それが相手の感情を逆撫でするだけだというのは、わかりきったことだろうに。
「てめっ…よくもまあ、ヌケヌケと」
 案の定、ビクトールは頬を引きつらせ、更に顔を赤くした。
 それは至極当然の反応というか、いつものパターンだ。
 俺は朝飯のスープが冷めるのも気になったが、朝っぱらから命がけの斬り合いっていうのも避けたくて二人の様子から目が離せなくなる。
『…あれ?』
 俺はビクトールが持っている分厚い本に気づいて、軽く目を見張った。
 こいつが本なんて読んでる姿、今まで見たことあったっけか?
 しかも題名が『史実に残る戦術総論』…?
 経験と本能だけで戦っているだろうヤツとは珍しい組み合わせじゃないか。
 そんなことを思う俺の前で、ビクトールはまるで威嚇する熊のように本を振り上げてバレリアに迫った。
「こいつはてめえの本だろうがッ」
 なるほど。
 それなら理解できる。
 真面目そうな元帝国士官とこの手の本なら、ごく自然な取り合わせだ。
 それにしても、厚みが10センチ以上あると本でも武器になりそうだからすごいもんだ。
 …っていうか、ビクトールくらいの怪力で殴られたら相手は即死かもな。バレリアはそいつをわかって…わかっていてやってるんだろうなあ…はは。
「そうみたいだな」
 ちらりと本を一瞥したバレリアはそんな思わせぶりなセリフを吐く。
「てーめーえーなあ!!」
 激昂したビクトールが勢いよく本をテーブルに叩きつけた。ものすごい音がして、反動から飛び上がった食器ががちゃんと音を立てる。
 しかし、バレリアは別段驚きもせず、横に倒れそうになったカップをそつなく支える。そんな相手の態度にビクトールがますます不機嫌になったのは言うまでもない。
 よくもまあ、そこまで底なしに怒れるもんだと俺も感心するね。
「てめえのせいで最悪の気分だぜ」
「そうか。大変だな」
「ふざけんなっ!オレはなあ、すっげえ悪夢見たんだぞ!!」
 …は?
「睡眠学習にはならなかったか」
「なーるーかあっ!!」
 悪夢?睡眠学習…?
 どういう経緯と理由でビクトールが怒っているのか、俺にはまったくわからなかった。
 もしかして、とてつもなくくだらない理由だったりしないか?おまえ。
「あのな…よくわからないんだが、その本がどうしたってんだ?ビクトール」
 俺はため息混じりに聞いてみる。
 するとビクトールは聞いてくれと言わんばかりの勢いで俺を振り返った。
「コイツはなあ、このぶっとい本をこともあろうにオレサマの枕の下につっこんでったんだよ!!」
 …はあ?
「おかげで悪夢はみるは肩はこるわで、寝不足になっちまったんだぞ!!」
 おいおい…。
 たったそれだけのことでふつうあそこまで怒るか?
 それに、なんか他にもっと重要な問題があると思うんだが…。
「おまえなあ、それっくらいで怒るなよ」
「それっくらいだとお?」
 ちゃんと話を聞いてやがったのか!?と身を乗り出してきたビクトールの向こう側から、
「それで、よくこれが私の本だとわかったな。ビクトール」
 静かな声でバレリアが言う。
「あったり前だろーがッ!『史実に残る戦術総論』つったら昨日−−−」
 ふいにビクトールの声が途切れた。
 何かを思いだしたかのように視線が凍りついている。
「昨日、がなんだ?」
 バレリアの口元は笑っていたが、その目は限りなく冷たかった。
『バレリアが怒ってるぞ…おい』
 正直言って、俺はバレリアを敵に回したくない人間の一人だと思っている。
 そんな馬鹿なコトをやってのけるヤツが身近にいるというのは、ちょっと不幸かもしれない。
 しかし、そうやって時々俺に不幸のおすそわけをしてくれる馬鹿はというと、返す言葉も見つからない様子で固まっていた。
「その本は昨日、おまえが私に貸してくれと言っていた本だな」
 うっ。
 こいつはなんだってバレリアにそんな頼み事するかね。
「部屋に取りにくると言っていたから、私はずっと待っていたわけだ」
 ぐげっ。なんか先が読める展開だぜ…。
 思わずジト目で見つめてしまう俺の視線に、ビクトールは居心地悪そうに顔を背けた。
 ついでバレリアの盛大なため息。
「あまり遅いので届けに行ったら、おまえはもう寝ていたしな」
 自分から言い出した約束をすっぽかすなんて、最悪じゃねえか!
『ビクトールの完敗だな』
 俺は一人頷きながら、顔色をなくして立ち尽くすビクトールをちらりと見た。
 もとより、こいつが口でバレリアに勝てたためしはない。…というか、バレリアが理由もなくビクトールを怒らせることはまずなかった。
 だから、いつも勝負はビクトールにとって最初から分が悪い。
 しかし。
『問題はここから先だ』 
 ここで二人がおとなしく引き下がるような可愛い性格だったら、俺もそれほど心配せずにすむだろうに。
 ビクトールは負けず嫌いだし、バレリアとてそうそう甘いヤツじゃなかった。

 そして、第2ラウンドが始まる。



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