人魚姫T-【2】
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 厚い雲に月の光を遮られ、海の中は見渡す限り真っ暗でした。
 それは夜の闇に慣れているはずのテンガアールでも思わず躊躇するほどでした。
 よく知っている場所のはずなのに、怖い何かが潜んでいるような、そんな不安が胸に湧いてきます。
 それに波のうねりは大きく、ほんの少し力を抜いただけであっという間に遠くまで流されてしまいそうでした。油断すれば、固い岩場に叩きつけられることもあるでしょう。
「もう家に帰ったほうがいい。テンガアール」
 すぐそばから聞こえる気遣うような声に、テンガアールは戸惑いの表情を浮かべました。
 海の底から強い揺らぎをかいくぐりながら泳いできて、ようやく水面の辺りまでたどりついたばかりです。
「姉さん…あの、ぼく…」
 まるで墨の塊のような闇は確かに怖いモノでした。
 でも、そこに闇を切り裂くようにして走る一瞬の光がありました。遠くから徐々に近づいてくるそれは雷光にちがいありません。
 雷光を遠くの空でしか見たことがないテンガアールにはその美しさにどきどきして。
 そして、初めての体験にわくわくしてしまうのでした。
 でも、それもお姉さん人魚がすぐそばにいてくれるから。
 だから、どんなに怖くても大丈夫と安心していられるおかげでもありました。
 そう、今もお姉さん人魚は荒い波がテンガアールに直接ぶつからないようにと、テンガアールをかばうようにして泳いでいました。
 テンガアールもそんなお姉さん人魚をこれ以上、困らせたくはありません。
 でも。
「あの光がもうちょっとこっちに来るまで見てちゃダメかな…?」
 もう少し、嵐の海がどんなものか感じていたいというのもありました。
 まっすぐにお姉さん人魚の目をみることができなくて、うつむきかげんに言うテンガアールの頭にやさしく手が置かれます。
「では、あと少しだけだ」
「うん♪」
 そうしている間にも雷光は近づき、ついで海水を伝わり響く雷鳴の音も大きくなってきました。雷光と雷鳴の間隔も短くなっていました。
 次に何かが起こるんじゃないか、という気がしてテンガアールはもう目が離せません。
 だから、お姉さん人魚にぐいっと腕を引かれて彼女はびっくりしました。
「ね、姉さん!?」
「船だ!」
 短く応えた声には切羽詰まったモノがありました。
 そのままお姉さん人魚は海の底へとものすごい勢いで泳ぎはじめました。
「船…?」
 どこにそんなものが?と怪訝に思いながら振り返るテンガアールの目に、雷光の目映い光が闇を貫くのが見えました。
 しかし、それは綺麗な一条の線ではなく、大きなほころびがありました。
 いえ、ほころびと思えたものは雷光を遮る大きな船でした。
 確かに嵐とぶつかる船があることは知っていましたが、そんなにすぐそばまで船が来ているとはテンガアールも思ってもいませんでした。
「いつの間に−−−?」
 瞬間、ひときわ眩しい雷光が光ったかと思うとこれまで以上に大きな轟音がテンガアールの耳を打ちました。
 大きな揺らぎが水を伝わり、彼女の小柄な体を強く引っ張りました。
 しかし、それ以上の力でお姉さん人魚はテンガアールを引き寄せました。
 痛みに思わず涙が浮かんだテンガアールの目に映ったのは巨大な黒い影。
 それは人間の船の一部、マストと呼ばれる物だと彼女が知るのはずいぶん後になってからのことでした。
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