人魚姫U-【6】
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『どうせ同じ死ぬってんなら、あんたも道連れだ』
 その切羽詰まった状況を考えれば、それは当然ともいえる言葉、と言えたかもしれません。が、その言葉でバレリアの頭に血が上ったのも確かでした。
「勝手なコトを…」
 全身が燃えるかの怒りに体が震えます。
 しかし、幸か不幸か、事態の損益を計る理性も彼女は持ち合わせていたのです。
 この場合、どうすることが一番良い方法なのか?
 さっさとこの邪魔な人間を陸まで運んで、戻って、妹を探す。
 それとて時間のかかるコトですが、いつまでもこのしぶとく、不気味な人間の相手をしている方が愚かにちがいありませんでした。
 運ぶ途中に隙を見つけて抹殺できれば御の字というものでしょう。
「…いいだろう。しっかりつかまっているがいい!」
 たぎる怒りをこらえ、低い声で告げると同時にバレリアは波間に飛び込みました。
 何か言いかけた男の声になど耳を貸さずに、めいいっぱいの力で水を蹴立てて泳ぎます。その勢いはすさまじいものでした。
 早く妹を助けに戻らなくては、という想いと。
 途中で力つきて死ね、と人間に対する思惑とを重ねて。
 彼女は先の見通せぬ闇の中を、無謀なまでの突撃体勢で突き進みました。魚か何かがぶつかっても見向きもしません。
 ただ、首に回された腕に力が込められるのを合図のようにして、何度か海面に飛び上がる以外、彼女は直線で泳ぎきったのでした。
 そうしてぼんやりと見える陸の稜線が近づく頃には、嵐の領域も遠く、海は静かに凪いでいました。
「着いたぞ」
 その事実を忌々しく思いながら、バレリアは男に告げます。
「着いた…?」
 しつこく、しぶとくバレリアにしがみついていた男はというと、ごほごほ激しく咳き込みながらも顔を上げて、陸地を探すように首を巡らせました。
「着いたって…岸はまだまだ遠いじゃねえかよ」
 不審げな呟きにバレリアは「当たり前だろう」と冷たく返します。
「岸まで連れていってやるほど私は親切ではない。ここからなら、貴様でも泳げない距離ではないはずだ。そこに小さな岩場がある。勝手に休んで、勝手に泳いで帰れ!」
 わかったなら、放せとばかりに突き放しにかかったバレリアを、しかし、男は実に不思議そうに首を傾げて見返しました。
 厚い雲が垂れ込めた空には星も月もなく、互いの輪郭さえほとんどわかりません。
 それでも男が探るように自分を見ているのをバレリアは感じて、不快感を覚えました。
「なんなんだ?」
「なあ、おまえって変なヤツだな」
「……なん、だと?」
「だってよ、オレを殺すつもりだったろうが?なのに助けるってのか?それともなんだ、油断させといて殺す気か?」
「この…」
 あまりにも勝手な言いぐさに、バレリアは手を振り上げましたが、相手に届く前にそれは受け止められてしまいました。
 自由にならない体の代わりに彼女は怒鳴ります。
「殺せるものなら、とっくに殺しているッ!だからといって、貴様は素直に死んでくれるのか!?油断なんてしてくれるのか!?だったら…生かして帰すしかないだろう!ふざけたコトをほざくなッ」
 満身の力を込めた怒鳴りに、ぜえぜえと息が切れるほどです。素早く呼吸を整え直し、
「納得したなら、手を放せ」
 と告げたバレリアに。
「あー、参ったな…」
 男は妙に抑揚のない声でぽつりと呟きました。
「?なんのことを…」
「ああ、まあ…なんだな。絶対、驚くと思うんだがな」
 苦笑混じりの声に、ますます怪訝に思うバレリアをよそに男は言葉を続けます。
「あんたに惚れた。だからな、オレの嫁さんになってくれ」
 と。
 しーんと恐ろしいほどの沈黙が落ちたました。
 『惚れる』とか『嫁』とか。
 それはバレリアにとってあまり縁のある言葉ではありませんでした。が、その言葉の意味はきちんとわかっているつもりでした。
 それでも理解するにはかなりの時間がかかりました。
 到底信じがたい…そう、なにをどうしたらそうなるのか?とバレリアが理解を放棄するほど威力を持った言葉でした。
 タチの悪い冗談だと怒るよりなにより、とにかく強すぎる衝撃に頭の中が真っ白になったのです。
「こいつはおふくろの形見なんだ」
 とか言って、男が自分の指に何かを嵌めたことに気づいたのも、顎を取られて唇を塞がれた後のことでした。
「きっ、貴様はなにを−−−」
「なにって、ちゃんと指輪を嵌めてキスしただろ?で、結婚成立ってわけだ」
 至極当然とばかりの声が応えます。
「ちょ…ちょっと待てッ」
 全身からドッと汗が吹き出すのを感じながら、バレリアは息も絶え絶えに言葉を押しだしました。
「き、貴様の言ってることは私には理解できないし、理解するつもりもない!」
「うん?だが、婚姻は成立したぜ」
「だからっ、なんでそうなるんだ!?わかってるのか?私は人間ではないんだぞ!?」
「別にそれくらい、些細なことじゃねえか」
「どこが些細だ!!」
 この男としゃべっていると気が狂いそうだと思いながら、バレリアは怒鳴りつけ、一瞬、本当に気が遠くなりかけました。
「おい、大丈夫か?」
「…とにかく、人間にとってはどうかは知らないが、これは我々にとって婚姻の成立にはならないしっ、なにより、私にその気はない!」
 きっぱり言いきった彼女に、男は「そいつは困ったな」とぜんぜん困ってなどいない声で呟きます。
「あんたにはおふくろの形見の指輪、やっちまったしなあ」
 わざとらしく意味深に言い置いて、とっさに指輪を自分の指から引き抜こうとしたバレリアの手を押さえます。
「返す!」
「嫌だ」
「受け取れ!」
「そいつはご免だ」
 男はニヤリと笑って、ふいにバレリアを拘束していた腕を解きました。
 あんまりあっさり自由になれたコトに驚く彼女に、男はからかうように言います。
「で?あんたは急いでるんじゃなかったのか?」
「−−−−!」
 そうです。バレリアは早く妹を助けに嵐の海に戻らなくてはなりませんでした。でも…。
「これをもらうわけにはいかない」
 嘘か本当か、母親の形見と言われた品をもらう気はバレリアにはありません。
 そうして生真面目に指輪を押し返そうとした彼女の腕を逃れるように、男はすいっと泳ぎはなれました。近づけば近づいたぶんだけ、男は遠ざかります。
 闇の中では服のポケットにでも押し込んで、というバレリアの目論見も上手くいきませんでした。
「急いでんだろ?妹がどうなっても知らねえぜ?」
 その言葉にバレリアは強く唇を噛みました。
「貴様に受け取る気がないなら、コレは海に返すからな」
 言い捨て、背を向けたバレリアに男は何も言いませんでした。
 それはまるで何かを言う必要などないのだと、暗にそう告げられているようで、バレリアはムッとしましたが、これ以上、無駄に時間を費やすわけにもいきません。
 男のことを頭の中から振り払うように勢いよく首を振り、彼女は真紅の尾びれで強く海面を叩きます。
 だから、別れ際、男が呟いた言葉を彼女は聞き逃しました。
「また会おうぜ」
 それは冗談とも本気とも、誰にもわからぬ独白めいた呟きだったのです。
 
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